旅行・地域

2012年11月18日 (日)

第123号 弾圧の爪痕 アクトゥンバル(ラ・ピスタ)の場合

アクトゥンバルは、ネバフの北に位置する人口2000人ほどの、平凡な村だ。先週書いたアクルより地図で見るとかなり遠いのだが、約半分の歩行時間で到着した。

他には特筆すべき特徴もないこの地が有名なのは、ここに約1000メートルもの滑走路があるからだ。アクトゥンバルは現地での村の呼称で、地図にはラ・ピスタと書かれている。ラ・ピスタとはスペイン語で滑走路を意味する。

この滑走路以外何の特徴もないこの村の歴史もまた悲しい。先回登場した、ネバフの若き観光ガイドの話によるとこうだ。「70年代、軍がやって来てこの地に住んでいた全家庭を戸別訪問し、ゲリラについての尋問を行った。ゲリラに少しでも関係ありそうと見られた人は殺された。残った人たちも、いつ殺されるかわからないと思いほとんどは山に逃げた。メキシコまで逃げた人もいる。山々の木々は焼かれ、主食であるトウモロコシを栽培するとすぐ見つかるため、人々は草木を食べて飢えをしのいだ。逃げなかった人々は、ネバフ周辺に強制移住させられ、軍に協力するよう強要された。その後村は焼き払われ、無人の場所となり、やがて滑走路と付随施設が建設された。目的は、もちろんゲリラ撲滅のための軍人や物資を運ぶためである」

先回のアクルと違う点は、村を焼き払った後滑走路を建築したが、住民の囲い込みはしなかったことだ。人々が再びこの地に帰り始めたのは戦後であったらしい。飛行機は飛んでいないが、今も滑走路が草ぼうぼうでないのは、誰かがいまだに整備をしているからなのだろう。

先日グアテマラで大地震があった。イシル地方はあまり被害はなかったと思われるが、今後この飛行場が、自然災害などの際の物資運搬基地として機能してくれるよう願う。それがせめてもの罪滅ぼしだ。

2012年11月11日 (日)

第122号 弾圧の爪痕 開拓村という名の収容所・アクル

ネバフの北西の方向?に町を一望できる展望所がある。そこを目指して、老体に鞭打ち歩いた。途中薪を背負った何人なの人々に出会ったが、ほとんど人通りのない山道だ。約1時間ほどで目的地に着いた。噂にたがわず、そこからの眺めはのどかで美しい。

少し体力に余裕があったので、この山を越えたらどうなるのだろうと歩いてみた。約15分で峠に着き、そこから約1時間下ると村に着いた。バス停のある中心部には、ここらとしては不自然に家が密集しており、大きな道路が村の真ん中を走っている。こんな田舎に何故大きな道路があるのかいかにも不釣り合いで不思議な光景だった。腹が減ったので、雑貨屋に入り村の名前を聞いた。アクルという名だった。ぶらぶら歩いていると、大きな牧場に行きついた。たくさんの牛が草を食み、犬が吠えながら走り回っている。同じ道を歩いて引き返す元気はなく、帰りはバスを利用した。

 帰って、ネバフのガイドをしている青年にアクルについて聞いてみた。アクルは現在人口約700人で、1970年代の後半だったか80年代の前半だったかに、それまでの家々が軍によってすべて焼き払われ、その後に住民の囲い込みのために新たに作られた村だという。当時、昼間は家を離れ野良仕事が許されたが、夜間は外出禁止で、夕方になっても家に帰っていないものは射殺の対象とされたということだ。どうりで管理しやすいように家が密集していたのだ。村の真ん中を走る大きな道路は、必要時には、ゲリラ攻撃の基地として飛行機が離着陸できるようにと作られたらしい。広いわけだ。

 この村は、polo de desarrolloと言われている村の一つだ。適当な訳語が見つからないから僕は「開拓村」と名付けているが、現実は開拓村とは程遠い。

 尚、現在この地はチーズで有名である。大きな牧場は、そのチーズ工場の一角だったらしい。経営は、ヨーロッパ人だ。

2012年10月21日 (日)

第119号 モノクロ写真

数年前、マヤのティカル遺跡を見ての帰り、フローレスの空港で、まだ遺跡の復元工事中の写真を見つけた。もちろんモノクロ写真だ。熱帯雨林の中で、巨大な樹木が周りを覆い、からみついた根の奥にわずかに人工の建造物がみえる。そんな写真だ。現在のティカルからは想像もできないあの写真を見ていると、ティカル遺跡の建物群を発見し、古代マヤの建物群の一部ではなかろうかと想像した人たちの胸の高鳴りが聞こえてくる。そして、ティカル修復に人生を賭けたに違いない多くの人々の思いも伝わってくる。

たった数枚のモノクロ写真が遺跡をさらに刺激的なものにする。古代マヤを現代に招き寄せてくれる。本当に嬉しい発見だった。

 モノクロといえば、サンディニスタの革命に参加した人たちの写真の絵葉書をニカラグアで見つけた。乳首を子供に含ませにこやかに笑う女性兵士の姿がある。広場に憩う多数の男女の兵士達がいる。鳩を手に微笑む少年兵もいる。いずれも戦いの合間の兵士を写した写真だ。肩にかかる小銃がなかったら誰も戦いの合間とは思わないにちがいない。サンディニスタの戦いに参加し、命を賭して戦った人たちへの共感が、これらの写真をますます美しくする。これもやはり、白黒でなくてはならぬ。

あれらの写真を今家の中で必死で探すのだが、どうしても見つからぬ。何枚かは絵葉書として使用した記憶はあるのだが、その他は果たしてどこへ行ってしまったのか。

2012年9月16日 (日)

第114号 洗濯事情

イシル地方で最初にホームステイをした家が、アデという女性の家だ。ネバフ市にある。この地方では中の上という階層だろうか。長女は医者になるためにいま大学に通っている。真ん中の娘もコンピュータ関係の技師になりたいと勉強をしている。下の娘は獣医になりたいそうだ。ま、お金にはあまり不自由していない感じである。大きなテレビが居間にはあり、ステレオもある。しっかりした薪のかまどと同時に石油のレンジもある。冷蔵庫ももちろんある。お湯の出るシャワーも付いている。インターネットにはまだ繋がっていないが、パソコンも最近買った。しかし、洗濯機はない。

アデ家だけでなく、一般の家庭で洗濯機を見たことはまだない。何故か?アデ家の場合は洗濯専任のお手伝いさんを雇っている。洗濯だけかどうかは別にして、ある程度お金持ちの家庭ではお手伝いさんを雇うのが普通のようだ。アデ家の場合、家族5人分の洗濯で支払いは月100ケツァル(1000円)だったか150ケツァルだったか。洗濯機がいくらするのかは知らないが、人を雇う方がはるかに安くつくという。

人を雇う方が安上がりなのに、人を雇うことのできない人々にはもちろん洗濯機を買う余裕はない。子だくさんで2世代3世代同居の大家族の多い家庭にとって洗濯はかなりの負担に違いないのだが、女たちは洗濯は手でするのが当たり前のこととして受けれ、黙々と励んでいるようだ。男が洗濯や調理に関わっている姿はまだ見たことが無い。おそらくこれらは女の仕事なのだろう。

僕の知る限り、ほとんどの家は洗濯槽を持っているが、共同の洗濯場もあちこちで見かける。川で洗濯している風景を見ることも稀ではない。そして、家々にはあちこちに洗った洗濯物が、折り重なるように干されている。洗濯機があればどんなに楽ができるだろうと想像するが、その日はまだ遠そうだ。電気器具の中で洗濯機の優先順位はまことに低い。男も洗濯に参加するようになれば優先順位も上がるのではないかと思うが・・。


公共の洗濯場。もちろんまだ現役だ。

2012年8月26日 (日)

第111号 ちょっと文章が間に合わなくて・・・・

ネッバッホのホテルの窓から見えた隣の家。上部左が織物をする場。右が洗濯場。コンクリートで覆われた下部が居室部分。真ん中のトタン屋根で猫が寝ていた。 アティトゥラン湖のほとりの町サンペドロの船着き場付近。安宿が多く、外国人の長期宿泊客が多い。看板も英語の方が多く目につく。
クリスマス前から突然現れる街頭の花火屋さん。クリスマスイブと正月には、もう街中花火と爆竹の音だらけだ。年が変わった瞬間が特に激しい。      写真はパナハチェルにて。    ネバッホの洋服屋さん。
パナハチェルのとあるレストラン。華やかなこと。 バスがこんなに空いているのは珍しい。こんでくると、この座席に3人づつ座るのだから、もう、たまらない。

2012年8月19日 (日)

第110号 コデアルテコに行った日本人

イシル地方に始めて行ってから7年になる。その7年間に全部で6人の日本人にあった。そのうち3人はアンティグアで知り合った知人で、僕が案内した。もう1人はアメリカ在住の織物の専門家で、アメリカ人のツアーを引き連れてやってきた人だ。その人とは、たまたまインターネット上で知り合って、イシル地方に行きたいということで、連絡を取り合っていたので、純粋?な旅人には2人しか会っていないことになる。最近はイシルにいる期間がそう長くないため会う確率も低いのだが、それにしても日本人には知られていない地だということがよくわかる。

 僕が案内した3人はいずれもアンティグアでスペイン語を学ぶために滞在していた人たちである。3人ともコツァルに行き、同じコデアルテコのメンバーの家で食事をし、宿泊もした。同じグアテマラとはいえアンティグアとは全く違った風景や人々の様子に3人とも興味津々であったようだが、反応の仕方はかなり違っていた。

 最初に一緒に行った女性は、行く時はよくおしゃべりをしていた。泊めてもらう家に着いたのは夕方であたりはかなり暗くなっていた。そのくらがりのなかで、木の切れ端に腰をかけ、地面にじかに炊かれた焚火の上で食事にまずはド肝を抜かれたようだ。手洗い用に回された共用のたらいにも抵抗を感じたらしい。暗がりの中での手づかみの食事にも驚いた。トイレやベッドは言うに及ばずというところか。それでも、何とかとりつくろって二日後にコツァルを後にした。しかし、帰りのバスの中ではほとんど口を利かなかった。相当ショックが大きかったらしい。カルチャーショックというものではなく、食べ物、清潔感等への違和感が大きかったようだ。この人は、こんな場所を一人で旅行するには向かない人だなと感じたが、以後約半年間彼女は一人で南米を貧乏旅行している。分からないものだ。

 二人目は、これも女性である。コツァルへ2泊で行くのに荷物はウエストポーチだけだ。持ち物はお金等の必需品のほかは、下着が上下一枚づつだけだという。これにはこちらがちょっと驚いた。海外旅行は今回が初めてだということだったが、実にさばさばしていて順応が早い。何にでもすーと溶け込み全く問題はない。寝床で、ノミに噛まれたらしいと、ぼりぼりやっていたがそれも何だか自然な感じ?だった。いまも、僕とコツァルとの結びつきを一番喜んでくれている人だ。

 三人目は60歳を超えているが実に精力的な男性だ。スペイン語はほとんど話せないのだが、まったくものおじすることなく、何でも、誰にでも積極的に話しかけ、相手の反応を見ながら結構楽しんでいる。最初の日から、食事もお代わりしていた。大雑把なようだが、実によく気の付く人で気配りもすごい。初めての家なのにさりげなくお手伝いもしている。文化の違いを楽しむとかいう雰囲気は感じられないのだが、この人もグアテマラにはまったらしく、毎年長期間の訪問をし、イシル地方もしばしば訪れているようだ。

 その土地の風俗や習慣を見るのはもちろん面白いが、そこに行った日本人がどのような反応をするかを見るのもまたおもしろい。もっと多くの日本人がこの地を訪れ、いろいろな反応をしてほしいものだ。

2012年8月12日 (日)

第109号 ボール蹴りとカップラーメンと

ネバッホの知人を訪ねた。クリーニング屋兼旅行代理店をしており何度か訪れたことはあるのだが、そう親しいわけでもない。

玄関先の道で息子がボール遊びをしており、一緒に遊んでくれと言うので「ちょっとなら」と一緒にサッカーのまねごとをした。二人で蹴り合いをしていると、6歳くらいの妹も一緒に遊びたいという。間もなく、近所の子も一人・二人と加わってきた。そしてしばらくすると、通りがかりのおばちゃん二人が一緒に遊び始めた。二人とももう40歳は過ぎていると思われる。スカートをからげ必死で球を追っている。見物客も増えてきた。こちらは息が切れて早くやめたいが、こうなるとなかなか「いち抜けた」とは言い出せない。あたりが暗くなってやっと解放された。明日は体の節々が痛いに違いないと思いながらへたり込む。

それを見ていた母親(これが知人)が、一緒に夕食を食べて行けと言い出した。2回ほど断ったのだが、子供も一緒に食べたがっているからと何度もすすめられ、結局ごちそうになることにする。

洗濯機と乾燥機が何台かおかれた部屋を横切って階段を上った二階が居室になっている。しかし、この居室からは、隣の家との境のブロックが直接見える。この家の二階の西側には壁が無いのだ。風は入り放題である。この地方は、季節によっては底冷えもする。決して貧しくはなく、ここらでは中流に属すると思われるこの家の、家屋へのこだわりのなさにびっくりする。尚、居間と食堂兼用の部屋の中には、これまでに見たどの家のものよりも立派なチュ(マヤ式サウナ風呂)がドーンと据わっていた。

さて、夕食だ。でてきたのは、昼食の残りの野菜の煮物と、メインはカップラーメンだった。日本では、人を招待して食事にカップラーメンを出すことは、まずあり得ないことだが、グアテマラでは、そう珍しいことでもない。有難く頂戴した。日本ではこうして食べるんだよと、フォークに麺をからませて、勢いよくズルズルとすすって食べてみせた。皆不思議そうに眺めていた。同じようにしてみるよう言ってみたが、誰もすすれなかった。麺をすすって食べる習慣のない人たちには、すするという行為そのものができないのだという話を聞いたことがあるが、どうも本当らしい。

まさに、「ところ変れば品変る」である。日常の中にも随所にお国柄が見えておもしろい。

2012年8月 5日 (日)

第108号 ある少女

コデアルテコの事務所で水泳について話していた時のことだ。「私泳げるの」とその子が突然言った。まだ12~13歳程度のペドロの知り合いの女の子だ。皆、エエツと彼女の顔を見た。

この地には海はない。川はあるが泳げるほどに水を溜めたところはない。公営プールなどもちろんないし、学校にプールがあるわけでもない。要するに皆泳ぎの経験が無いから、この地の人のほとんどは泳げない。この地で泳げる人といえば、大金持ちの特権階級と言っていい。しかし、僕もその他の人も知っていた、彼女の家がとてつもなく貧しいことを。彼女の家族が今住んでいる家には電気もないことを。

その後、何故彼女が泳げるかそのわけを知った。彼女の祖父は豪邸を持つ大金持ちだった。その遺産を引き継いだ父親は放蕩息子で、あっという間にその財産を食いつぶした。資産を食いつぶすまでの間に、彼女は水泳を習っていいたというわけだ。家も土地もすべてを失った彼らは首都のグアテマラシティに職を求めて移り住んだ。しかし、彼の地にも求めるものはなく、失意のうちに再び生まれ故郷に戻ってきた。そして今は電気のない家で生活している。

自分で勝手に食いつぶした親が、どんな生活をしたとこで知ったことじゃない。しかし、いつも明るくて、人生の大暗転のあったことなどみじんも感じさせない彼女を見るのはつらい。

その後、彼女とその家族総出で海岸地方のコーヒー園に出稼ぎに行ったとの知らせがペドロから届いた。家族全員で働いて、1カ月の報酬が一万円くらいにはなるだろうか。

 「私泳げるの」とぽつんとつぶやいた彼女は、いつか今の境遇から這い上がることができるのだろうか。暗澹たる気持ちになる。

2012年7月29日 (日)

第107号 ピクニック

コツァルのコデアルテコのピクニックに招待された。年に一度のメンバーのお楽しみ親睦会なのだが、今回は恐らく、僕の訪問時期にあわせて設定してくれたものだ。年に一度なのだが、今回は都合の付かない人が多くて総勢10人ほどだ。行き先はこの地では有名な滝のほとり。10分ほどバスに乗り、あと40分ほど山道を歩く。鍋や食料を皆たくさん抱えている。

目的地に到着したらすぐ食事の準備だ。火をおこす人、練り上げたトウモロコシ子をバナナの葉にくるむ人、肉の準備をする人、皆テキパキと動きが早い。ぼけーと眺めているのは僕だけ。今から思えば、料理の仕方などじっくりと眺めていればよかったのだが、そこらを散策し、内戦中に人々が隠れていたという洞窟など見て回った。

1時間半ぐらいたったころ料理ができあがった。トウモロコシの粉をバナナの葉に包んでゆで上げた「タマル」と「牛肉の煮込みトマトソース味」とコーヒーだ。移動するときも食事の準備をするときもみな静かだったのだが、食べ始めるとにぎやかになった。コツァルで計何十回も食事をしたが、牛肉を食べるのは初めてだ。しかも塊が大きい。以外に柔らかい。こんな牛肉が出るというだけでも、やっぱり今日は特別なのだ。

食事の後は、後かたずけをして、そこらを少し歩き、水辺で少し戯れて、そしておしまい。歌があるわけでもなく踊りがあるわけでもなく、何か余興があるわけでもない。しかし、みななんとなくウキウキした様子が感じられる。僕も、何となくほのぼのとした気持ちになった一日であった。

2012年7月22日 (日)

第106号 トウモロコシ


グアテマラはトウモロコシの国だ。パンもよく食べられているようだが、トウモロコシへの依存率は日本のコメへの依存率よりはるかに高い。トルティージャ
(トウモロコシを粉にして練りあげ焼いたもの)とフリホーレス(インゲン豆)があれば生きていける国なのだ。肉も魚もなくていい。

 そんな国だから、トウモロコシ畑はいたるところにある。上の写真は、収穫前のトウモロコシ畑である。今年の1月に撮った写真だ。成長が停まった後も、枯れた状態で身を残したまま畑に放置されている。乾燥させているのだろう。昔は日本でも刈り取った稲を棒に掛けそのまま田んぼで乾燥させていたがあれと同じ原理だと思う。地方によってはトウモロコシの実の付いたあたりから折り曲げてあるところもある。それは、収穫しやすいからだとか、折り曲げることによって成長を早く止めるのだとかの説明を聞いたが、折り曲げてない地域のトウモロコシと比べて何らかの違いがあるのかどうか、どうもよく分からない。

 イシル地方の位置する西部高原地帯には平野部はほとんどないから、山の斜面のかなり高い場所までトウモロコシ畑が広がっている。日本の棚田のようなもので、見るのは楽しいが作るのは大変だろう。
 今年はアメリカでトウモロコシの大不作が予想されているとか。グアテマラにも大きな影響があるだろうと心配だ。

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