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2015年1月

2015年1月31日 (土)

第234号 グアテマラは結構寒い

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 グアテマラは北緯15度あたりに位置し、フィリピンのマニラと同じくらいのところにある。日本よりはるかに赤道に近く暑い地方だと私も思っていたし、そう思う人が多い。あれだけ赤道に近いのだから確かに暑い。海岸地方などでは年中半袖でいい。しかし、これまでに何回も書いたが、首都のグアテマラシティをはじめ主だった町や観光地はかなり高度の高いところにあることが多い。海抜1500mから2500mくらいの間に町や村が点在する。僕が主にゆく西部高原地方は特にそうだ。昼間の日差しは結構きつくても夜間や朝の冷えは厳しい。油断すると、寒さで眠れない夜を過ごす羽目となる。

 コツァルに行くといつも3度の食事と宿泊とは無料で、大変歓迎されるのだが、最近は、ネバフまで戻ってホテルに泊まることが多い。その大きな理由の一つは寒さだ。でも、ホテルでもシャワーのお湯はぬるいしベッドの中もそれなりの準備をして行く必要がある。もちろん時期にもよる。

 

写真は、チチカステナンゴ近くで見たリンゴの木である。リンゴは寒い地方の果物だと思うが、あちこちの家の庭先で見られる。

 

2015年1月25日 (日)

第233号 ロス・エンクエントロスとタイヤのベンチ

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ロス・エンクエントロスとはグアテマラ西部高原地帯にある地名で有名かつ重要な分岐点である。グアテマラシティ方面から来た車は、このロス・エンクエントロスの分岐点を北に進めばキチェへ、西方面に進めばシェラやウエウエテナンゴに至る。シェラ方面に少し進み南下すれば、ソロラからパナハッチェルにつく。重要な分岐点であるだけに、車の往来は激しくいつも人で溢れかえっている。グアテ!グアテ、シェラ!シェラ,キチェ!キチェと客を呼び込むバスの車掌の声も喧しい。信号なぞないから、猛スピードで行き来する車の合間を縫って道路の反対側に行くのも怖い。人は左右を確認しながら小走りでいつも移動する。道路横断は犬も小走りだ。

そんな分岐点の真ん中にタイヤのベンチがあった。置いた人がそれを意識したのか、それとも単に道路との境界をはっきりさせたかったのか知る由もないが、見事に並んだタイヤのベンチ。結構便利そうだし、何だか絵になる。でも超猛スピードで車の行き来する分岐点の中に座るのは僕には少し勇気がいる。

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2015年1月18日 (日)

第232号 グアテマラ・アウロラ空港内の土産物店

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 写真は出国審査を終えた後のアウロラ空港の民芸雑貨店である。空港内売店といえば、酒やタバコ・香水や時計などの免税品がまず浮かぶ。が、ここほど民族色豊かで楽しそうな民芸雑貨の空港内売店にはここ以外でであったことがない。最も、それほどあちこちの空港を覗いてはいないけど。さすがレインボウカラーの国の土産品店である。空港内でこんな店に出会うと嬉しくなってしまう。それに街中の店と比べて、さほど高くない。

2015年1月11日 (日)

第231号 ハマイカ

グアテマラにはハマイカと呼ばれる飲み物がある。ハマイカとは、jamicaのスペイン語読みで、英語で言えばジャマイカのことだ。ジャマイカはあの有名なコーヒー・ブルーマウンテンで有名なカリブの小国である。

 店の主人にこの飲み物の材料はなんだと聞いたら、店の奥から乾燥させた赤い花を持ってきて見せてくれた。海岸地方の温かい場所で採れるのだそうだ。ネットで調べると、ハマイカとはどうもハイビスカスティのようなのだが、何故ハマイカと呼ばれるのか見当もつかない。ハイビスカスのことをスペイン語でハマイカというのかもしれないと思ったが、そうでもないらしい。

 名前の由来はともかく、濃い赤紫の鮮やかな色で、甘酸っぱい味と香りは日本の紫蘇ジュースを思わせ美味しい。温かいハマイカというのも頼めば提供されるということなのだが、私はまだ冷たいのしか飲んだことはない。

写真の右上の飲み物がハマイカだ

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2015年1月 4日 (日)

第230号 リオス・モントの人気と安倍政権

リオス・モントはクーデターにより1980年に大統領になった。そして,ゲリラ討伐という名のマヤ民族殲滅作戦を遂行した。彼の命令により何千何万の人々が殺された。その殲滅作戦の中心地がキチェのイシル地方だった。

 私が始めてグアテマラに行ったのは2003年の秋である。ちょうど大統領選挙の真っ最中であった。立候補者の中にリオス・モントの名があった。クーデターを起こしたものには大統領に立候補できないというグアテマラの法律をかいくぐっての立候補だった。結局彼は17パーセント程度しか得票できず敗退した。当たり前のことと私には思えた。

 それから2年後の2005年の冬にグアテマラを再訪し,2006年の春に始めてイシル地方へ行った。それまで一旅行者として観光地をなぞることしかしていなかった僕にとってイシルは強烈だった。町も家も食べ物も仕事も宗教も,生活全ての印象が強烈だった。

 その強烈な生活印象とは別に,非常に違和感を覚えた出来事がある。それは、あのリオス・モントのこの地方における人気である。選挙が終わってもう2年以上も経っていたがリオス・モントの名と彼が総裁を務める政党FRGの拳を握りしめたマークがあちこちで見られた。彼は人気があった。前の大統領選で敗れたが、彼のイシル地方での得票率は他を大きく引き離してのトップだったらしい。彼はイシルの救世主であり、彼がもし軍の暴走を引き止めてくれなかったら、今のイシル地方は存在しなかったかもしれないというような話を何人かから聞いた。軍の被害を受けた人からも、弾圧対象であったカトリックの信者からも聞いた。大弾圧の首謀者が、被害にあった人たちから絶大な指示を受けている。これは信じられなかった。だが事実である。何故か?

 きちんと調査したわけでもなんでもないが、私はそれを情報不足のせいだと思った。

 イシル語を母語とし、スペイン語を理解していない人の割合がどれくらいか正確にはわからないが、中高齢層を中心にかなりいると思われる。しかし、選挙戦はスペイン語で行われる。候補者の演説はもちろん(と入っても演説を直接みたのはアンティグアだけだが)、新聞もテレビも皆スペイン語だ。しかも新聞をみているのはほんの一部の人だし、テレビを持ってない人も多い。スペイン語を理解したとしても彼らの情報源は非常に限られている。まして、スペイン語が理解できなかったらお手上げだろう。情報を選び自分で判断するのは難しい。だから、誰か親しい人や有力者が「あの人はいい人だ。あの人のおかげでイシルは救われている」と言ったとすれば、その意見を素直に受け入れてしまう。イシルの敵ともいうべきリオス・モントがイシル地方であれだけ人気があるのはそのせいだ、と思った。もっとこの地に情報がたくさんあれば、教育が行き届いていればリオス・モントの人気がそんなにあるはずもないのに、と。

 しかし、情報がたくさんあり教育がゆきとどいていればリオス・モントの人気はなかったのだろうか。彼の得票率は低かったのだろうか。答えはそう簡単ではないはずだ。

 日本では安部自民党が大勝した。集団的自衛権も特定秘密保護法も原発容認推進も沖縄に押し付けられた基地負担も国民の大半は反対している。そのいずれにも自民党は賛成推進派であることは誰もが知っている。政府の大々的な宣伝とは裏腹に人々は生活が苦しくなっていることを実感している。しかし、自民党は大勝した。 日本には情報は氾濫している。皆字が読める。にもかかわらず自民党は大勝した。新聞を読み、テレビを見、ラジオを聞くだけでは不十分なのだ。

 メディアから流れ出る情報の裏を読み取る力がなければ、白を黒へとねじ曲げることができるだけの圧倒的強さを持つ権力には対抗できない。また、経済的に優位であることのみが追求される価値観への疑問なしには世の中は変わらない。

 ジェノサイドと人権侵害の罪で訴えられていたリオス・モントは2014年の5月に国内の裁判で80年の禁固刑を受けた。すぐ憲法裁判所により、裁判の無効がいいわたされ釈放されたが、一時的にではあれ80年の刑が言い渡されたことの意味は大きい。直接の暴力への恐怖と戦いながらも、グアテマラの状況は少しずつ前に進んでいる様に見える。沈黙を強いられてきた人たちの言葉が少しずつ語られ始め、真実が少しずつ明らかになってきているのだろう。

10年ほど前にリオス・モントに何故それほどの人気があったのかは依然不明だが、彼らの人権意識は着実に変わってきている。リオス・モントの人気ぶりをみた時は、文盲と無知のせいだとイシルの人たちを見下してしまったが、今見下されるのは、極右政権を支持し続ける我々の方なのかもしれない。政治腐敗と暴力まみれのグアテマラの現状は非常に厳しく、イシルの人たちの生活はとてつもなく苦しいが、まだまだ金と物に支配されない堅実な生活感を持っていると私には思える。リオス・モントに80年の禁固刑を下すことのできるグアテマラのそしてイシルの人々の明るい未来を期待したい。

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