« 2013年10月 | トップページ | 2013年12月 »

2013年11月

2013年11月24日 (日)

第173号 歯医者

 歯医者については以前ネバフでの体験談を書いたことがある。今回は前に書いたのよりさらに以前の2005年ころのことだ。場所はアンティグアである。いまでは、設備も技術もずいぶん変わっているはずだが、昔のメモをそのまま載せる。

 奥のかぶせてあった歯がとれてしまった。仕方無しに歯医者に行く。
6畳間くらいの待ち合い室には先客が一人いた。午後2時、まだ、診察は開始していないらしい。間もなく、看護婦が様子をみにやってくる。名前を書く。5分程して先客と同時に診察室に入る。診察台二つ。椅子は60度くらいに固定されていてリクライニングはない。やがて、若いソバカスのある女性がにこやかに入ってきた。なかなかの美人だ。まずとなりの客と一言二言。次に僕のところに来て、「こんにちは、私が歯科医の○○です。どうぞよろしく」と自己紹介をし握手のための手を差し出す。なかなか愛想が良い。グアテマラの歯科技術に対する信頼がない故、変なことをされたらどうしようと心配しながら座っていた緊張感が弛んでくる。
どうしたのかと聞くから経過を説明。旅行者で時間がないからただくっつけるだけで良いのだと、必死で暗記してきた単語を並べようとしたが、その口を制して、OK OK!と笑いながら処置に入る。機器類は日本とくらべると遥かに古く、うがい設備などついてはいない。
「東京から来たのか?」「いや違う、もっと南の方だ」「写真で見たが東京はビルがとても高くてきれいだ」「いや、人は多いがきれいではない」などと喋りながら治療は進む。やり方は少々荒っぽい。ガリガリゴリゴリ、痛くて顔をしかめるが気にとめる様子もない。ただくっつけるだけでいいのに、こんなにガリガリして、そのままかぶせられるのかと心配になったが、なんとか終了。治療・処置は全て医者が行い、看護婦は支えているだけ。治療台を降りて部屋の隅でうがいをすると、口の中から血の塊がドバッと出てきた。帰りには、次の客の治療の手をとめて、医師看護婦共ににこやかに見送ってくれた。治療費75Q。約1100円。

 治療は少し荒っぽかったが、客の迎え方や対応の仕方については日本の医師も見習ってほしいものだ。

2013年11月17日 (日)

第172号 アメリカ密入国

ネバフでよく世話になるマイノは始めて合った10年近く前からアメリカへ行きたい行きたいと言っている。決して貧しい家庭ではないのだが、子供達の教育のための資金をアメリカで稼ぎたいらしい。
チャフルに住むインヒニオは新婚なのだが真剣にアメリカ行きを考えている。仕事といえば季節のコーヒー収穫かトウモロコシ収穫しかなく、家族を養う収入が得られないからだ。
二人の動機や経済状態はかなり違うのだが、いずれにしても正規の手続きでアメリカ入国のビザを手に入れることはまず不可能といっていい。密入国ということになる。アメリカへの密入国を個人でするのはこれまた不可能といってよく、一般的にコヨーテと呼ばれる密入国を斡旋する業者が活躍する。もし一度失敗しても、3回まではチャンスをくれるらしい。2回だという人もいるがどちらが正しいのかはよくわからない。コヨーテへの支払いはインヒニオによれば4万5千Q(約55万円)だという。マイノールは3万5千だと言っていた。二人とも良く調べているはずだから、一万ケツァルの差がどうしてできたかはよく分からないが、何れにせよ、ものすごい大金であることには変わりない。金は銀行が貸してくれるのだそうだ。しかし、無担保で銀行が金を貸してくれるはずもないから、うまく入国できなかった時は、その借金を返すために家族・親族中を悲劇がおそう。
うまくいかなかった時は、2度、あるいは3度のチャンスがあるということだが、それも生きて帰ればの話である。国境に行き着く前にメキシコ国内で、あるいは国境で犯罪に巻き込まれたり襲撃されたりして命を落とすこともあるだろう。その確率は決して低くないはずだ。
でも、マイノもインヒニオも行きたがっている。真剣に検討している。マイノの奥方は賛成ではないのだが、積極的に反対するわけでもない。インヒニオの奥さんはどちらかといえば賛成しているようだった。
この二人に限ったことではなく、アメリカ行きを夢みる男女はものすごく多い。仕事のない田舎に行くほど顕著である。まだアメリカは彼らに成金の夢をくれる国なのだ。夢というより、そうする以外には這い上がれない現実の反映なのだろう。

なお、アメリカから死体で帰ってきたという若者の葬儀に、ここ数年間で2度ほどネバフででくわした。


2013年11月10日 (日)

第171号 薬屋さん

僕の知る限り、グアテマラは薬屋の多い国だ。
とりわけネバフには多い。多すぎる。石を投げたら薬屋に当たる、というほどでもないがとにかく多い。なぜこんなにも薬屋が多いのか、皆経営は成り立つのか気になるところだ。2~3人に理由を聞いて見たが、「さー」とか「この町は病人が多いんじゃないの」、などという参考にならない返事が帰ってきただけだ。
高知にきた頃、酒屋の多さには驚いた。最近は、スーパーや酒専門の安売り店の増加のせいか減ってきたが、最初は異様にみえた。しかし、あれは単純に高知には呑んべいが多かったからだろうから、グアテマラの薬局の多さの参考にはならんしなー。
まー、恐らくこれと言った理由はないのだろう。でも不思議だ。

朝7時半から夜8時までと開店時間も長い

2013年11月 3日 (日)

第170号 コツァルと我が故郷・高知と

先回は坂の町・コツァルの田舎ぶりについて書いた。弱者には優しくない環境だなどとも書いた。しかし、コツァルを弱者に優しくないなどというのは、少し傲慢過ぎた。わが住まいする高知のある山村のことを今回は書いてみよう。グアテマラとは少し離れるがお許しあれ。

 1985年ころのことだ。とある子供を南国市から家まで送っていくことになった。私は付き添い役だ。高知に来てまだ間もない時で、もちろん初めての場所だ。南国市から約2時間走ったところで、国道から小さな道にそれた。急カーブのぐねぐね道が続く。もちろん0.6車線位の小道である。こんなところにまだ家があるの?というような道を車はのろのろ進んでいく。

 そのうち行き止まりになった。しかし、その付近に家はない。え?この子の家はどこ?? やがて、急斜面の山道を背負子を背負った男の人が下りてきた。その子のお父さんだ。そして、歩くことのできないその子を背負子に乗せて彼は這うように再び山を登って行った。途中で姿は見えなくなった。家は一体どこにあるのか影もなかった。あのときの情況は今も鮮明に記憶に残っている。

 そして4~5年後。家のかなり近くまで、車の通れる道路ができたと聞いた。今度は私の運転で行くことになった。前に行き止まりだった場所から崖に沿って新しい道ができていた。しかし、がけ沿いのその道がまた急坂の急カーブの連続だ。ハンドルを持つ手にも、ブレーキを踏む足にむやみに力が入る。同乗の2人の女性職員のうちの一人は車から下を覗いたとたん動けなくなり子供の付添どころではなくなった。そしてその道も500mくらい走ると、また行き止まりだ。そこで子供は降りるのだが、そこからさらに5~60メートルは山道を歩かねばならぬという。しかし最早以前のような急斜面ではない。

 そしてさらに2~3年後、ぐっと家の近くまで道路が開通したときいた。しかし、それでもまだ車を降りて30メートルくらいは山の斜面を歩かねばならなかった。それ以上道が家に近づくことはないらしい。

 お父さんの話によると、そこらの住人は平家の落人の末裔か、そうでなければ訳ありで追手の届かぬこの地に逃げてきた人の末裔かいずれかだという。

 それから数年後、お父さんは盲腸炎から腹膜炎になりなくなった。今時日本で盲腸でなくなる人の話はめったに聞かない。なぜそれほどひどくなるまでほおっておいたのか正確な理由は分からぬが、車を持たず、すぐ医者が近くにいる環境でもなく、ついつい病院に行くのが遅くなってなくなったのではないかと思っている。人里にいれば救われる命が、あの地に住んでいたばかりになくなった。

 最後に訪れてからもう13~14年は経つだろうか。しかしおそらく今もあの付近はそう変わってはいないはずだ。もし変わっているとすれば、道が家の前まで通じたということではなく、家に住む人が無く村が無人化している方だろう。

 

 グアテマラの田舎の話をすれば、なんと辺鄙な所とか、戦後間もないころの日本と一緒だねなどといわれる。しかし、場所によっては、グアテマラの田舎も日本もそう差はない。都会に住む人には想像できないことかもしれない。

« 2013年10月 | トップページ | 2013年12月 »

無料ブログはココログ
2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31