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2011年6月

2011年6月27日 (月)

第57号 フィエスタ(祭り)


今年の2月半ばにアンティグアからコツァルのペドロに連絡した。電話の向こうで、コツァルにはいつ来るのかと聞いた後、26日には特別なお祭りがあるので、ぜひその時はいて欲しいという。特別なお祭りとはなんだろう?マヤの儀式でもあるのかな、どんな儀式なのかなと、少しばかり期待をしてしまった。

だが、何のことはない。コデアルテコの活動資金を援助してくれるかもしれないという団体の訪問への歓迎式だった。単なる歓迎のイベントをお祭りと表現するからこちらが誤解しただけのことのようだ。

それを聞いて僕はなーんだと思っただけだが、コデアルテコにとっては、ここで援助資金が入るか入らなきかの瀬戸際だ。皆張り切りようが違う。前日から、その接待の話題でもちきりである。

そして、当日。

その「祭り」は午後2時ごろから始まるというのに、朝9時ごろから人が行き交い、事務所はなんだかあわただしい。あわただしそうに見えるだけで、何か準備をしているようには見えなかったのだが?? 会場は3階である。とても広いとはいえない。せいぜい十畳間くらいの広さである。

午後1時ごろからぼつぼつメンバーやその家族などが集まり始めた。1時半ごろマリンバがつく。どうもこれがメインらしい。グアテマラのマリンバはとても大きく、大体1つを3人くらいでたたく。狭い階段を3階まで上げるのが大変だ。

午後1時45分ころ、ご一行到着。アメリカの団体らしい。今日の出席者5人である。このころになると会場は人であふれ、出入りもままならないほどだ。まずはありきたりの歓迎あいさつとグループの説明に歓迎される側の挨拶。

そしてそれがすむとマリンバの演奏が始まる。やがて、踊りが始まる。踊りといっても、ただ、手を取り合って音楽に合わせて体をゆすっているだけだ。踊り人も見る人あまり表情の変化はない。

しかも踊りに参加する人は極めて限られていて、コデアルテコ側からは5人程度だ。そのほかの人は、勧められても、恥ずかしいのか決して参加しようとはしない。しかし、誰もその場からは去ろうとはしないし、踊りは曲を変えながら延々と続く。どうも居心地がよくなくて、僕は会場を抜け散歩に出た。小一時間して帰ってみるとまだ踊りは続いていた。皆帰ることもなく見ているが、何が楽しいのだろうか。踊っている人だって全然面白そうではないではないか。義務感でいるのだろうか。疑問は解けぬまま「祭り」は終了し皆帰って行った。

さて、あくる日。事務所に顔を出すと、仕事をしていたファンが、開口一番「昨日の祭りは楽しかったなー。ソウジ、マリンバも良かっただろう」と言った。ぼつぼつと何人かのコデアルテコメンバーが、顔を出したが、誰もが昨日の「祭り」の楽しさを話題にし、僕にも同意を求めた。

そうだったのか、そうだったんだ。皆楽しんでいたんだ。喜んでいたんだとその時初めて了解できた。

この調子では、彼らの気持ちを理解できるのはまだまだ遠い、と少し落ち込んだ。
この件だけに限らず、事祭りに関しては、僕の思う楽しさと彼らの楽しさにはだいぶ違いがあるようだ。

2011年6月18日 (土)

第56号 悲しきアルコール

   マンゴー   これだけで10ケツァル 約110円


2009年4月コツァルを出てキチェに向かうためにバス停に向かって歩いていた。まだ朝の10時前だというのに、電柱の横に男が一人転がっている。酔っ払って眠っているようだ。よく見る光景である。たくさんの人があたりを行き来しているのだが、誰も気にかける様子はない。憐憫の情さえ誰の表情からも感じられない。全くの無視に見える。服は泥だらけで片方の靴はない。失禁したのだろう、ズボンの前はびしょびしょに濡れている。頭は先のとがった石の上に乗っかって傍目には痛そうなのだが、本人は眠りこけている

あたりの人がだれひとり気にかける様子がないように、僕にとっても無関係の、だがよく見かけるこの街の一コマに過ぎないと思っていた。間近で確認するまでは。

全く無関係の一人の酔っ払いにすぎないと思っていたその人は、知り合いのパブロだった。見知らぬ場所の遠景から、急にズームアップしたカメラがよく知る家庭内部を写し始めた様な感じだ。最初に彼の二人の子供たちの顔が浮かんだ。二人ともまだ幼いが、とても利発でかわいい。「ソージ」と言いきれず、いつも「ツォージ、ツォージ」と僕の名を呼んでいた。ついで働き者の奥さんの顔が浮かぶ。パブロとはつい2日ほど前に言葉を交わした。一生懸命に仕事をしていた。なかなか器用で腕のいい裁断士だ。にこにこしながら子供たちの事を語っていた。

彼の酒癖については前から聞いていた。酒を飲まないときは仕事熱心で子煩悩で、本当にいい人間なのだが、という知人からの嘆きも聞いていた。飲んで暴力をふるうことはなかったようだが、酔っ払った父親を子供が恐れているらしかった。だが、喜ばしいことに、酒を止めると誓った彼はここ3カ月以上酒を飲んでいないとも聞いていた。

その彼が、今失禁をして電柱の横で眠りこけている。おそらく彼も努力して酒を止めようとしていたのだろう。その努力が、飲まないことに期待をかけたに違いない家族の思いが、その笑顔がすべて無駄になった。その場に家族がいないのが幸いだった。こんな父の姿を見る妻と子供たちの心境はいかばかりであろうか。家族でもない僕ですら、みじめで、痛々しく、腹立たしく正視にたえない思いだった。

 

そして、1年後にまたパブロにあった。いつもの穏やかで、子煩悩で仕事熱心なパブロだった。でも、周りの人に聞くと、2~3カ月に一度の割で飲酒は繰り返されるという。飲み始めたら1週間くらいは飲み続け、その後ぴたりとやめるらしい。彼がその間何を思って暮らしているのか知る由もないが、何とかなるものなら何とかしてあげたい。しかし、あの地域に断酒会でもできて彼がそれを受け入れでもしない限り、この状態は続くのではないかというのが、アルコール問題に詳しい人の意見である。パブロだけに限らず、深酒をして道端に寝転がっている人は数多くいる。飲酒の後は家族への暴力に至るケースもまた多いと聞く。だが、コツァルに断酒会ができることは、ここ当分はないだろう。


2011年6月11日 (土)

号外 グアテマラの人権

グアテマラは犯罪の多い国だ。地元の新聞には、毎日のように仰々しく殺人の記事が載る。特に、スキャンダラスな記事で有名な「ディアリオ」を見ていると、グアテマラにいることが怖くなるほどだ。

 例により僕の勝手な見解だが、問題となる殺人などの犯罪には二つのタイプがある。

 一つは、マラスと呼ばれるギャング集団による犯罪だ。首都のグアテマラシティで頻発するバス強盗や運転手殺しなどの犯罪はこのタイプの犯罪だ。会社にみかじめ料を要求し、それが聞き入れられなかったときに見せしめのために殺人を犯すことが多いという。メンバーの多くは派手な入れ墨で全身を塗りつぶし、このメンバーとして認められるには、人、とりわけ若い女性を一人殺すことが必要だという。その実態が、日本でも数年前の「デイズ・ジャパン」にも取り上げられていた。

 もう一つは、戦争中の人権弾圧を告発したり、真相究明を迫ったり、最近では、鉱山などの地元住民無視の開発に異を唱える人たちに対する暗殺である。僕が初めてグアテマラに行った2003年の大統領選挙の時に聞いた噂によると、グアテマラの大統領になる一番の道は、対立候補を暗殺することだそうだ。ジョークとして聞いたが、「邪魔者は消せ」という方法はこの地ではまだまだ生きているようだ。

36年間にわたる内戦中の激しい弾圧・虐殺とその責任を未ださばくことができず、「戦犯」がのうのうと暮らしているグアテマラの戦後と平和はまだまだ遠い。

第二次大戦中の戦争責任を未だにきちんと裁くことのできない極東の経済大国とよく似ている。

 

さて、長々と前置きを書いてしまった。今回の番外編は、アムネスティ日本のメルマガで見つけたグアテマラの人権弾圧に関する記事を見て欲しいことと、できればネット署名をしてほしいというお願いである。


http://www.amnesty.or.jp/modules/wfsection/article.php?articleid=3916&mm=1

2011年6月 4日 (土)

第55号 選挙とリオス・モント

何号か前にラジオの事を書いた。なぜラジオは必要なのかの説明に、現地語での情報の少なさを挙げた。それを書きながら、思い出したことがある。今回はその話にしよう。

リオス・モントという悪名高き人がいる。1982年にクーデターによって大統領となった元将軍だ。彼が軍の最高司令官であった当時、グアテマラのゲリラ掃討という名のマヤ民族虐殺は凄惨を極めた。ジェノサイドである。彼は、いわば超A級戦犯である。しかし、彼は今でも議会内で隠然たる勢力を誇る。僕が初めてグアテマラを訪れた2003年当時国会議長を務めていたし、11月か12月に行われた大統領選挙に立候補していた。クーデターを企てた人物は大統領選挙に立候補することはできないという、グアテマラの憲法をかいくぐってである。

で、彼が大統領であった頃の民族大虐殺の中心舞台となった場所の一つがキチェ県であり、とりわけイシル地域である。だから、キチェの人々にとってリオス・モントはなぶり殺しにしても、し足りないほどの悪の代表であり、いわば敵なのだ。そのはずだ・・・。だが、現実とは誠に不思議なものである。その、リオス・モントがキチェ県で絶大といっていいほどの人気があるのだ。もちろんイシルでも。

彼は大統領選挙に勝利はできなかったが、キチェをはじめとする山間部の得票率は1位だった。なぜ、あの大虐殺の責任者の彼に人気があるのか。直接間接に何人かの意見を聞いた。その結果、かなり多くの人が次のように考えているらしいということが分かった。

あのリオス・モントがいて軍部の暴走を防いでくれたからこそ、イシルはあの程度の被害で済んだ。彼がいなかったら今イシルはなかったかもしれない。彼はイシルを救ったのだ、と。

あまり直接被害をこうむっていないラディーノ達の意見だけだとしたら、彼らがそう考える、あるいは考えたがるのは理解できる。しかし、家族を殺され家畜を殺され農作物や畑を焼かれてしまった人たちまでがそういうのである。事実がそうでないこと、彼に責任があることは明らかなのにである。これには驚いた。

なぜなのか?なぜ彼はそのように好意的に理解されているのか?

もちろん僕の独断と偏見だが、理由は二つある。一つは、情報の少なさである。皆知らないのだ。リオス・モントがこのイシルの地で何をしたのかを。知るすべを持っていないのだ。独自の情報源を持たない彼らは、たとえば町の有力者が、「リオス・モントは偉かった、彼がこの町を救ったのだ」といえば、そうなのかなと思ってしまうのに違いない。

ちなみに、スペイン語を理解しない人のためのラジオやテレビの番組の現実については前に書いた。マスコミのもう一つの雄、新聞について言えば、たとえば、人口2万のコツァルで販売されるのはおそらく数十部にすぎないだろう。それ以外の人は、たとえスペイン語が読めたとしても、新聞は読まない。情報は、ただ伝え聞くのみなのである。

そして、もう一つの理由がキリスト教エバンへリコの影響だ。かつてのカトリック王国にエバンへリコがいま猛烈な殴り込み?をかけている。かつて90%とも95%とも言われていたカトリック信者の割合が、今グアテマラ全体で、65%か70%くらいではないだろうか。イシルでは、もう50%を割ったのではないかといわれている。エバンへリコの躍進には少なからず内戦が影響しているのだが、それはさておき、リオス・モントは数少ないエバンへリコの大統領であった。地元の人に言わせると、「リオス・モントの教会」と呼ぶ立派な教会がネバッホの中央公園近くにあった。別に彼が持っている教会という意味ではなくて、彼が属する教会という意味だろうと思うが、教会を通して数多くのエバンへリコ票が彼に流れることは想像できる。

尚、2007年の総選挙の際は、リオス・モントは大統領選に立候補はしなかった。かれの息のかかった党も惨敗した。この年イシルでも第一党を維持できなかったようだ。が、未だ彼に人気があることは変わりない。

2011年の今は果たしてどんな状況なのだろう。残念ながら今年はそれを聞きそびれてしまった。

注:エバンヘリコ 
 エバンヘリコとは、キリスト教プロテスタントの中の福音派を指す言葉らしいが、ここでは、大雑把にカトリック以外のプロテスタント全般を指す言葉として使っている。

木も石も建物も利用できるものは何でも選挙道具に

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