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2011年4月

2011年4月29日 (金)

第50号 がけ崩れ

2010年の豪雨により引き起こされた土砂崩れ。イシル地方と他の町をつなぐ交通網は遮断された。写真は送られてきたもの。直後ではなく、いくらか時間がたった後と思われる。


ここ数年、グアテマラに行くのは乾期と決めている。大雑把にいえばだいたい11月から4月くらいまでが乾期だ。乾期を選ぶ理由はいくつかあるのだが、大きな理由の一つにがけ崩れの問題がある。

中央幹線道路から、地方の小さな道路に至るまで、最近道路そのものはかなり整備されてきているのだが、後の処理が悪い。特に、僕のよく行く西部高原地帯は急峻な山が連なっており、その山肌をえぐるように切り取って道路を作るのだが、道路は完成しても山肌の処理がなされていないのだ。時には高さ何十メートルにも及ぶ山肌が、むき出しのまま放置されている。たとえそれが乾期であったとしても、山肌を見上げるたびにいつ岩や土砂が落ちてくるかと心配でしょうがない。大雨でも降ると、それはもう落ちてこないほうが奇跡といってもいいくらいのもんだ。実際過去、何回も土砂崩れの現場に出くわした。だから最近は、自分の身の保全のためにも、山奥の村に閉じ込められないためにもグアテマラ行きは乾期と決めている。

そして、僕の恐れが決して杞憂ではない証拠写真が昨年届いた。洪水の多発により大きながけ崩れが起き、道路が寸断された写真だ。この事故により、何カ月も道路が遮断され、イシル地方から外に出られなかったそうだ。緊急の場合は、皆何時間も歩いてバスが通っているとこまで行ったという。外部に全面的に依存する必要のないような生活様式が幸いし、交通が寸断されても食料をはじめとする日常生活は何とか維持できたようだが、それでも不自由であったことに変わりはない。寸断された間、観光客はゼロ。したがってコデアルテコ等の売り上げもゼロ。コデアルテコの織り手たちは現金収入なしの生活を強いられたという。

 そのがけ崩れの痕跡は、雨期が終わって4カ月近くなる今もあちこちに残っている。雨期が終わって4カ月というよりも、あと2~3カ月もすれば次の雨期が来るという方が、より現実味がある。願わくば、ハリケーンやその他に異常災害が、今年は彼の地を襲いませんように。

2011年4月23日 (土)

第49号 コデアルテコのこれから

コデアルテコの事業計画はいろいろある。織り手各個人が織物技術を磨くこと、販売経路を確立し安定的に製品を販売すること、コツァル・エコツアーを軌道に乗せること、共同農作業を確実に行いトウモロコシやフリホーレスの収穫を行うこと等等。そして、それぞれの計画は少しずつ進んでいる。

製品の販売先の確保はもっぱらペドロの仕事なのだが、去年今年とそれには僕も少しかかわって貢献している?? 昨年は、世界遺産都市アンティグアでフェア―トレードをしているシェニーという人と掛け合って、コデアルテコの製品をおいてもらうよう約束して帰国した。今年行ってみると、コデアルテコの製品がたくさん飾られていた。ペドロの話によると、ここ半年の実績で言うと、コデアルテコの製品を売る外部の店の中で一番の売り上げがこの店だという。経済力のない僕は、そうたくさん買うことはできないが、そういう形で貢献できたことが、素直にうれしい。そして今年は、アンティグアに次ぐ観光都市と言ってもいいパナハチェルの、フェアトレード製品を扱う店の主人に、コデアルテコの製品をおいてくれるよう働きかけて帰国した。今頃はペドロがパナハチェルに行って具体的に話を進めているころだ。これも成功することを祈っている。

その他、販売確保とツアー客確保のための計画も遅々とではあるが進んでいる。まずは今事務所のある建物の大幅な改造である。今ある建物の1階部分の一部を製品展示販売の場所にする。これはもう完成している。その奥に部屋を増設し、シャワートイレもつけて宿泊施設とする。現在事務所に使っている2階も宿泊施設3部屋に改造する。これも二部屋はほぼ完成している。実は去年から工事は進められており、今年はそこに泊まれるかなと期待していたのだが、なかなか思うようには進まないものだ。そして屋上部分は食堂とする。これはまだ計画段階だが、すでにかまどが入っている。出来上がれば見違えるほどの施設になるはずだ。後は、集客をいかにするかなのだが、これが実は一番の問題だ。

今は売り上げが大きく落ちてとても苦しい、と口では言いながら皆の顔はなぜか明るかった。

1階の奥と2階部分が宿泊用部屋となる。屋上部分が食堂予定。写真向かって左下に見えるコンクリート部分は道路。すごい急斜面だ。

2011年4月15日 (金)

第48号 「グアテマラへようこそ??」

今回初めてイシルを訪れたのは、グアテマラ到着後20日を経過した2月21日だった。ネバッホに宿をとり、翌22日にコツァルへ向かう。チャフルとの分岐点に差し掛かった時、前方に何人かの兵士の姿が見えた。いやな予感がした。2年前にも同じ場所でバスから降ろされ身体検査をされた。あの時は自警団だったが今回は制服を着た兵士だ。やはり車は止められ、兵士が乗り込んできた。乗客の顔を覗き込み身分証明書の提示を指示する。いつも持ち歩かないパスポートを今日は幸いにも所持していた。無表情に兵士が顔と身分証を確認している。しかし、対象とされるのは男性のみだ。女性は身分証の提示を求められることもなく、ただ名前を聞かれていただけだ。2年前は所持品検査をされたが、その時も男性のみだった。今回は、身体検査もなく、身分証を確認すると出発許可が下りた。自分には何の非もないことは分かっていても、いつ難癖をつけられるかわからない。こんな場面は緊張する。一番困るのは、何のために止められるのかさっぱりわからないことだ。

緊張から解かれ、やれやれと思って5分も走ったころだろうか、また前方に武装兵士の姿が見えた。またバスは停車。今度は男性全員が下車を求められた。今回は身分証の提示のみだけでなく身体検査もあった。2メートルほど離れたところにいる他の兵士の銃口はこちらを向いている。身体検査を終え、再び身分証の確認が済んだ時、物腰の柔らかそうな責任者と思しき人がやってきて、「どこから来た?」ときく。ハポン(日本)だと答えると、パスポートでそれを確認した後、「Bienvenido a Guatemala(グアテマラにようこそ)」と言ってニコッと笑った。

こんな事をしておいて、グアテマラへようこそもないだろう。

 後で他の人から検問の理由を聞いた。刑務所から出てきたやくざに対するリンチ殺人があり、その殺人に加わった約30人の犯人を捕まえるための検問であったらしい。しかし、この捜査の背景はそう単純ではなく、うらに市当局と軍隊との確執があるということだ。今回の軍隊が前面に出ての検問も、軍隊側のデモンストレーションの意が強いという。結局検問は一日だけで、犯人たちが捕まってもいないのに終わってしまったことを考えると、その話にも真実味がある。夕方ネバッホに引き返し、そこで聞いたコツァル情報によると、今はコツァルの町へは、その住民以外は一切立ち入ることができないというものだった。人のうわさはかくも頼りない。あくる日もコツァルへ行ったが、軍隊も検問者の影もなかった。

2011年4月10日 (日)

第47号 グアテマラより帰ってきました。

3月11日の午前8時ころ、パナハチェルという観光地のホテルの部屋の前の通路の椅子に腰をかけ、ぼんやりとしていた時の事です。通りかかったホテルの主人が、「日本でものすごい地震がおきた。東京が中心らしい。今ニュースでやっている。」というのです。部屋に入りすぐテレビをつけました。生々しい映像が目に飛び込んできました。時差が15時間ありますから、その時日本時間では、11日から12日に日付の変わるころでした。テレビではもちろん詳しいことは分かりません。すぐインターネットショップに駆けつけました。しかし、インターネットがうまくつながりません。やっといくらかの情報を得て、メールをしたもののメールがうまく送られません。家に電話しましたが、これもつながりません。少し焦りました。

今回の旅行中いろいろなことがありましたが、なんといっても最大の出来事は我が祖国のこの出来事です。

日本の記事などめったに載ることのない、グアテマラの新聞ですが、さすがにその翌日は1面トップでした。テレビではそれから連日のように災害の現状と、日本を如何に救うかという内容の放送が続きました。マヤの言い伝えによると、2012年は人類の存亡にかかわる大事件の起きる年だとか。その言い伝えと今回の事件を関連付ける報道もありました。

僕の携帯電話の番号を知っている現地の人3人から日本の家族の安否を問う電話がかかってきました。僕を日本人と知る人からたくさんのお見舞いの言葉をもらいました。物売りも靴磨きの少年も、いつもはとてもしつこいのですが、僕が日本人だとわかると、とたんに押し黙り、家族は元気かと聞いて去っていきます。

グアテマラの人たちは一般的に家族をとても大事にします。大人になっても家族連れ添って外出など当たり前という感じです。そんな彼らですから、まず第一に聞くのが、僕の家族の安否です。皆無事だと伝えると、本当に喜んでくれます。十字をきる人もいます。ほとんど見知らぬ他人の、しかもその家族の安否を、なに故にかくも心配してくれるのかこちらが戸惑ってしまうこともしばしばです。

それから約10日後に訪れたコツァルでは、僕の到着を2人の女性が待っていてくれました。テレビもラジオもたず、もちろん新聞も読まない人たちですが、それでも今回の地震と津波の事は知っており、僕の事を心配して来てくれていたのです。他の女性は、名物の食べ物を持ってきてくれました。せめてこれをと自分で作ったマフラーをプレゼントしてくれた人もいます。

ますますグアテマラがイシルが好きになってしまいます。

 

4月2日に何とか無事に帰ってきました。今回は、イシル地方の悪天候と寒さと病み上がりの僕の体調の不安とが重なって、結局10日間ばかりのイシル地方滞在でした。またぼつぼつと見聞きしたこと考えたことなど発信していきます。

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