« 2010年12月 | トップページ | 2011年2月 »

2011年1月

2011年1月28日 (金)

第45号 市(メルカド)

グアテマラの市は面白い。いや、グアテマラだけでなく市というのはどこに行っても面白い。僕の住む高知には有名な市があって、日曜日には1キロくらい露天が立ち並ぶ。これはこれでたいへんおもしろい。高知に来たころは嬉しくて、暇さえあれば必ず訪れたものだ。しかし、グアテマラの市はもっと面白い。まあ何でも売っている。日常雑貨から、肉野菜、生きた動物までそれはそれは様々だ。何も買わなくても歩くだけで面白い。食べ物の匂いから生きた動物の匂いから花の匂いから、腐りかけた果物のにおいから何もかもが混ざり合いそこに人が加わる、その猥雑さが何ともいい。しかし、混雑はひどい。スリの出番の日だと旅行案内書には出ているが、僕はまだあったことはない。

市でもっとも有名なのはチチカステナンゴだろうか。木曜と日曜に開かれ、その日は町の中心部が全部市と化す。木曜・日曜以外は静かな町なのだが、市の日は様子が一変し、同じ町なのかと目を疑う。外国人観光客も多く、民芸土産品も多い。目移りがしてものを選ぶのも大変だ。サンフランシスコ・エル・アルトという町で開かれる市は、これはドでかい。市の様子を写真に収めたくても、とてもとても収まりきらない。チチカステナンゴは町の中心街地が市と化すという感じだが、サンフランシスコの方は、町全体が市という感じだ。こちらには観光客は少なく、民芸品などはあまりないのだが、とにかくその規模に圧倒される。

チチカステナンゴやサンフランシスコ・エル・アルトほど有名ではないし、規模も少し小さくなるが、大概の町には市がある。開催は週1回か2回が基本だ。小さいとはいっても、それはチチカステナンゴやサンフランシスコ・エル・アルトとの比較の話であって、一般的にいえばものすごく大きい。この人口で、なぜこれだけの店があって、毎週これだけの人が出て来てモノが売れるのか、僕には不思議でたまらない。イシル地方のネバッホでもコツァルでもチャフルでも、もちろん市は立つ。それぞれの開催曜日は違う。買ったばかりの子豚を引いたおじさんやニワトリや七面鳥を抱えたおばさんにもよく出会う。トルティージャを焼くにおいが漂う。鶏のから揚げはとりわけ人気がある。野良犬は食物を探してうろつきまわる。何時間もかけて歩いて来、一週間分の必要品を買い込む人も多いという。

グアテマラと市とは切っても切れないのだろう。高知の市は開かれなくても人々は暮らしてゆけるが、グアテマラでは市がなかったら人々の暮らしが成り立たない。市は彼らの生活の一部なのだ。

チチカステナンゴの市の中の野菜売り場 チャフールの市

2011年1月22日 (土)

第44号 トイレができた,かまどができた

2006年に初めてテレサの家を訪れたときの様子は第22号に書いた。家に一つ裸電球がぶら下がっているのは認めたが、他に電気器具らしいものは一切なかった。床にじかに無造作におかれた五徳ですべての煮たきはこなしていた。水は坂道を300メートルほど下ったところにある川から汲んできて小さな瓶にためてあった。食器洗いや飲み物などはそれでこなす。洗濯はその川まで衣類を運んで行う。

 だが、2009年に訪れたときには、様子がかなり違っていた。敷地に踏み入れるとすぐ右側に囲いの付いた小さな建造物が見えた。部屋に入ると隅には、コンクリート製の立派なかまどが据えられていた。家のすぐ横には水道管が通っており、これまたコンクリートの洗い場がある。

新しいかまどのおかげで、熱効率は大変よく、薪代は激減したし、しかも料理時間は短くて済む。暖房効果も大きいという。外の洗い場のおかげで、下の川までいちいち出かける必要がなく水汲みと洗濯もの運びという重労働から解放された。

そして、最初に見た家の前の建造物は、トイレだった。2006年に最初に訪れたときからトイレは気になっていた。それとなく、家の周りを見渡したが、どうしてもトイレらしきものは見えないのである。聞くのもはばかられて、そのまま帰ったのだが、その後そのほかの家の様子を見聞きすると、ここらでは、空き地に穴を掘って真ん中に板を渡して用をたすところがまだまだあるらしい。テレサの家もそのうちの1軒だったのではないかと思う。他の家で一度そのようなトイレを体験したのだが、不安定だし、夜は真っ暗だし、なんせ怖かった。それに雨でも降ったらもうたまらない。確認をしていないので、テレサの家がそうだったかどうか断言はできないのだが、いずれにしても、新しいトイレは誠に喜ばしい。

トイレだけでなく、かまども洗い場も万々歳だ。よかった。よかった。

爪に火をともすような生活をしながら、コデアルテコで稼いだ金をコツコツと貯めて整備したに違いない。いずれにせよ彼女らの生活が少しでも向上していくのを見ることは誠にうれしい。このまま右上がりに伸びて行ってくれたらいいのだけれど。

ただ、テレサの目に去年まではなかったメガネがかかっていたのが気になる。なんせ、眼は織り手にとって生命線であるし、同時にここの織物は目を酷使する仕事なのだから。

これはテレサの家のものではないが、同種の五徳。これがかまどの役割を果たしていた。 新しいかまど。左との差は歴然。

2011年1月15日 (土)

第43号 アルコール

ネバッホの中央公園の前に酒屋兼雑貨屋がある。四つ角のちょっと目立つ店だ。ここらでは珍しくワインが置いてある。埃をかぶっていたが、一本買うことに決めた。しかし、コルクの栓抜きなど持っていようはずもない。「栓抜きはあるか」とたずねるとないという。しかも、ここらでは売っている店はないというのだ。じゃー、どうやって開けるのと聞いてみた。「なーに手で開くさ」というのが店の主人の自信あふれる答えだった。そんな!手で開くわけないと思いながら家に帰り、試みたがやっぱり開かない。店の主人のくせにそんな知識でワインを売っていいのかよと一人毒づいたが、仕方がない。この町でおそらくワインを提供する唯一の店である「エル・デスカンソー」のレストランに行き栓だけあけてもらった。

さように、ここではワインは全く一般的ではない。いちばんよく飲まれているのはやはりビールかな。しかし、ビールはそう安いものではない。お金持ちはさておき、庶民にとっては毎日ビールを飲むというわけにはいかない。そこで、結構売れているのが、ベナードという鹿のマークの入った酒だ。安くてよく売れるという話は聞いたが、試したことはないので味も原料もよく分からない。ベナードだけでなく同じような酒は結構あるのかもしれないが、とにかくアルコール度が高くて安くて、酔うためにはうってつけだとか。

さて、そのほかに、「クーシャ」と呼ばれる非認可の酒がある。蒸留密造酒だ。一度だけ、コマラパという町で飲ませてもらったことがある。一口飲んだだけで、ふた口目を飲みたいとは思わなかった。無色で強くてまずい酒だ。残りをもらって、当時住んでいたアンティグアの下宿?に持って帰って皆にふるまった。調子に乗ったノルウエイの女の子が3~4杯飲んでいたが、あくる日は気分が悪いと食堂に姿を現さなかった。

クーシャは何でできているのか何人かに聞いたが、どうも同じ答えが返ってこない。ひょっとしたら原料は一つではないのかもしれない。そして、もちろん酒屋には置いてない。でも、ネバッホにもコツァルにも結構飲むところがあるらしい。客さえあれば、朝の4時からでも5時からでも飲ませるという。コップ一杯なみなみと注いで、1ケツァル(約13円)だとか。一杯飲んだら結構酔えるらしい。貧乏していても13円くらいならなんとかなる。この安さとアルコールの強さが、この国に無数にいるアルコール依存症を支えているに違いない。そして多くの悲劇も生みだしている。

 

グアテマラで作られている酒といえば、カリブ地域を原産とするラム酒が有名である。スペイン語でロンという。サトウキビを原料とした蒸留酒でなかなかうまい。ストレートで飲んでもよし、水割りもよし、カクテルもよし。サカパという地方で作られるロンはとりわけ有名で唸るほどうまいという話だが、値段も結構いい。貧乏人の僕はまだ飲んだことがない。尚、ロンのコーラ割を「クーバ・リブレ」といい都市部の酒場などで結構よく飲まれている。日本語に訳せば「自由キューバ」かそれとも「キューバに自由を」か。キューバが悪の権化と呼ぶアメリカ帝国主義を代表するといってもいい飲み物のコーラが、これまたキューバを代表する酒ロンと結びついて、なぜクーバ・リブレなのか。いわれを知っている人があれば教えて欲しいものだ。


2011年1月11日 (火)

第42号 主食栽培に挑戦

僕にコデアルテコを紹介してくれたステファニーが、コデアルテコメンバーのために試みたことの一つとして、ジャガイモ栽培がある。織物だけでなく活動を広げて行く一環として、ジャガイモを栽培しメンバーの収入を増やそうとしたのだ。彼女は畑の開墾から植え付けまでをともにし、収穫を見ずにドイツへ帰って行った。結果は、失敗で大赤字になったという。これに懲りたメンバーは、以後ジャガイモの話はしなかったが、もっと活動を広げて行かなくてはならないという考えは気になってはいたようだ。

それから2年が経過した2008年にそれはじゃがいもではなくフリホーレス(インゲン豆)という形で再現された。何年も放置された野原に近い畑を借り、何週間もかけて開墾し、フリホーレスを植えた。ちょうど畑作りが終わり、植え付けの日に僕も見学させてもらった。約10人のメンバーが毎日毎日何週間もかけてくたくたになりながらしてきた作業の最終日だけに、皆からは疲れとともに安堵感と満足感が感じられた。それぞれが自分の家でする織物作業と違い、皆でともに力を合わせながらする畑作りにはまた違った達成感があるのだろう。これまでのコデアルテコの利益の一部を元手とし、出来上がったフリホーレスは、コデアルテコでも特に経済的に恵まれない人たちに分配するのだという。

それから数カ月後、収穫は思ったほどではなく、大成功とまではいかなかったようだが、コデアルテコの活動として広がりを見せたことは間違いない。

そして、去年からはフリホーレスだけでなくトウモロコシも加えて続いているようだ。気候がおもわしくなく失敗だ失敗だと言いながら、今年も出来上がったトウモロコシを分配する様子を写した写真が送られてきた。

コデアルテコの活動が広がりと深化を見せ人々の生活が少しでも潤うことを、乞い希う。

2008年 今日は開墾最終日で種まきの日 2010年 収穫物を分配するメンバーたち(送られてきた写真)

2011年1月 6日 (木)

第41号 コデアルテコのボランティアたち

僕をコツァルへ、コデアルテコへ紹介してくれたのはステファニーというドイツ人だった。若い女性である。最初からその目的できたわけでもなかったらしいが、彼女は結果的に約半年間コデアルテコでボランティアをした。織り手たちにスペイン語を教えること、コデアルテコの経理を手伝うこと、その他いろいろな助言が彼女の仕事だった。2006年の事である。彼女は、自分のしていることを「仕事」と表現しボランティアという言葉は使わなかった。

2007年に再び訪れた時は誰も手伝いはいなかったが、2008年には、僕と入れ替わりで帰って行ったオランダ人?がいたらしい。2009年には、ニーナがいた。彼女もドイツ人で、二十歳前後の女性だった。帰国後は大学に行くのだと語っていたが、ここでの仕事は、やはり織り手たちにスペイン語を教えることだった。休日以外の午後毎日スペイン語の基礎と文字を教えていた。ステファニーがドイツのボランティア団体にコツァルの事を紹介し、そのボランティア団体が、ボランティアを募っているらしかった。ニーナもそれでここに来たらしい。

2010年にも二人の女性がいた。フランス人のクララは、旅行コーディネーターを目指しており、ここでもコデアルテコのツアーの手伝いをしている。スイス人のソーニャは、装飾の専門家で、コデアルテコの製品を売るための店の装飾などをしている。彼女らもボランティア情報を見てここにたどり着いたらしい。サボることもなく、毎日決まった時間に出社?し、淡々と仕事を皆こなしていた。酒も飲み、嬉しそうにボーイフレンドについて語り、時と場所によってはマリファナも吸うといったごく普通の人たちだ。(とはいっても、コツァルで酒をを飲むこともマリファナを吸うこともあり得ないのだが)。ま、どの人からも、ボランティアをしてここの人たちのために尽くしていますと言ったような気負いは一切感じられなかった。

ボランティアだから当然と言えば当然なのだが、何ら報酬はない。飛行機代から始まってこちらでの生活費一切は自己負担である。グアテマラに来てこのようなボランティアを実によく目にする。若い人ばかりではない、結構年配の人も、結構危ういボランティアに従事している。

阪神・淡路大震災以降日本人のボランティアに対する考えがかなり変わり、それに参加する人も増えていると言うが、このような形で活躍する日本人ボランティアにはまだ直接お目にかかったことはない。

ニーナ。只今授業中。民族衣装がよく似合う。

2011年1月 1日 (土)

第40号 つかの間のテレビ生活

2010年2月、今年もペドロの家を訪れた。夕方だった。いつも僕が寝させてもらうベッドのある部屋に入ると、なんと大人4人と子供5人が横一列に座っているではないか。その視線が一斉に僕の方に注がれたが、またすぐ元の方向に戻った。皆の視線の先にはテレビが映っている。去年はラジオもなかったのに、今年はいきなりテレビだ。アメリカの映画をしているようだ。英語だ。皆神妙な顔をして見ている。英語が分るの?とペドロに聞いたら、誰もわかるものはいないとそっけなく答えた。

観客は、ペドロの家族4人と、最近グアテマラシティから帰ってきたというペドロの姉の家族だ。テレビは実は、この姉家族の家のものだった。その家族が現在住んでいる家には電気がきていない。テレビはあるが、電気がきていないので見ることができない。それで、ペドロの家にテレビをおいて、家族が皆で毎日見に来ているということのようだ。そのお相伴にペドロの家族もあずかって、皆楽しみにしている。

しかし、アンテナがなくテレビ放送は受信できないため、DVDで映画を見ていたらしい。ことばなぞ解らなくても、映像優先?だ。毎日夕方になると皆テレビのおいてある部屋、すなわち僕の寝床のある部屋に集まってくる。

僕が子供のころテレビは村に何軒かしかなかった。そのテレビのある家に皆で押し寄せたものだ。そのころのことを思い出し、懐かしくも微笑ましくもあるのだが、同時に何か物わびしい。

なぜテレビまで持っている家族が、電気のない家に住んでいるのか。それにはこの家族のかなしくもせつない歴史があるのだが、今、それはおくとしよう。

コツァルに3日間滞在した後、2週間ほど旅をした。といえばかっこいいが、コツァルの夜の寒さに耐えきれず逃げだした。あるものを皆まとい、それでも寒いから部屋のあちこちに散らばっているぼろきれ類まで寄せ集めて体にかけて寝たのだが、それでもまだ寒い。たまらず場所を移した。
 旅の途中で、皆で見るようにと、スペイン語版のDVDを5~6枚買って帰った。皆喜んでくれるだろうなと期待していたのだが、帰ってみると機械が火を噴いたということでテレビは見ることができない状態だった。そして、そんなものは昔からなかったような、以前と同じ生活が続いていた。

テレビの持ち主の家族たち。
ここに記事を記入してください

« 2010年12月 | トップページ | 2011年2月 »

無料ブログはココログ
2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30