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2010年12月

2010年12月27日 (月)

第39 カタリーナの娘

小柄な女性が何人かの外国人旅行者を連れて事務所に入ってきた。コデアルテコの織り手の一人であるカタリーナの娘でマリアだと紹介された。コデアルテコでのツアーの手伝いを最近しているということだ。テキパキとしてとても活発そうに見えた。談笑する姿はいかにも楽しそうにも見えた。もちろんその時はまだ彼女の事を僕は何も知らなかった。

マリアは以前、警備会社に勤める夫と幼い女の子との3人でグアテマラシティに住んでいた。その夫が数か月前何者かに殺害された。仕事中の事である。しかし、仕事中に殺されたからといって何ら保証はない。無一物で投げ出されたマリアは仕方なく親を頼って帰ってきた。

生まれ育った家に帰って来、親と暮らすわけだから見知らぬ首都で暮らすよりは安心感はあるかもしれない。しかし、その傍らに夫はいない。しかも、マリアの腹の中には第2子が宿っている。それに彼女の母親の家は、絶望的に狭い。何度か訪れたことがあるのだが、カタリーナとその母親と、そしてマリア母子とそしてやがて生まれてくる赤ん坊とで、いったいどうやって寝るのだ、どうやって暮らすのだと心配してしまう。今はコデアルテコの手伝いをしているが、やがて腹の中の子供の成長とともにそれもできなくなるだろう。

この地域では長らく内戦が続き、罪もない無数の人々がその被害を受けた。マリアの母親も祖母もその犠牲者だ。戦争が終わってから14年経つ今も多くの人々がその後遺症で苦しんでいる。愛する人々を殺され生活は困窮を極めている。勝手な思いだが、戦争が終わった今、マリアはそのような苦しみと決別する生活を希求し、そうなるはずだった。だが思いはかなわなかった。今後どのような出来事が彼女たちを待っているのかは分からないが、幸あれと祈るのみだ。だが、僕には残念ながら幸せなマリアを今思い描くことが今はできない。

尚、マリアの夫を殺した犯人はまだ捕まっていない。この国の犯罪者検挙率はとても悪い。兄を殺され、まだ犯人のめども付いていないというネバッホの知人が、「この国には司法も正義もない」と怒りと諦めの表情でつぶやいたのを思い出す。

本文とは関係ありません。あるメンバーの仕事場兼寝室。
ここに記事を記入してください

2010年12月21日 (火)

第38 コツァルの治安  

イシルの中のネバッホもチャフルも問題はないのだが、コツァルは治安が悪いという噂はよく聞いていた。地元民であるペドロに確かめると、「そんなことはない。そんな噂を流すやつがいるからコツァルに観光客が来なくて困っているんだ」と憤慨していた。しかし、2007年だったか2008年だったか、ペドロの妹の夫がピストルで撃たれた。泥棒も多くなったと直接聞くようになったし、実際コデアルテコの事務所にも泥棒が入り、たくさんのものを盗まれた。ペドロの物言いにも変化が出てきて、中央部は問題ないが、周辺部ではチンピラが多くて困っていると言い出した。しかし、コデアルテコの事務所はコツァルの中央部だ。
 僕自身が問題に遭遇したことは一度もないし、やばいなと感じたこともないのだが、平和な町ではなかったようだ。

だが、2009年は違っていた。ネバッホで聞くと、コツァルはもう治安面での心配はなく、大丈夫だというのである。

セマナサンタを目の前にしたある日、その年としては初めてコツァルへ向かう。ネバッホからコツァルに向かうミニバスが、チャフルとの交差点の手前でとまった。外を見ると小銃を構えた78人の男が立っている。彼らが停車を命じたらしい。男性客は全員降りろという。何で男だけなの、女にだって悪いやつはいるはずなのにと思ったが口に出せるような雰囲気ではない。降りると無言で銃を向けられたままでの身体検査が始まった。誰も制服は着ておらず軍でも警官でもなさそうだった。パスポートを持参していなかったので、それを問題にされたらまずいと少し緊張したが、それは関係なかった。身体検査そのものはすぐ終わり、バスは再び出発したがなんだか不気味だった。コツァルはもう安全だという話が信じられなかった。

 コツァルに着いて知人に聞くと、どうも自警団による検問だったらしい。数ヶ月前からコツァルの治安回復を名目に、数十名の軍隊が滞在しているという。その軍隊の滞在に合わせて自警団が組織されパトロールを開始したらしい。1980年代前半に結成され、相互監視の名のもとに、地域社会をずたずたに分断し、恐怖政治を推進する上で大きな役割を果たしたのが自警団だ。その悪名高い自警団の復活を思わせる。

 軍隊の滞在と自警団のパトロールが、治安回復の理由だった。最近犯罪は0だという。チンピラの犯罪が無くなったことは住民にとってはとても喜ばしいことなのだが、軍の介在でそうなったのだとしたら、手放しで喜んではいられない。尚、警察官は増員された様子はない。ペドロによると、コツァルの警察官の数は4名だそうである。人口約2万人で、警察の管轄地域はかなり広い。4名ではなくて7名か8名はいるという人もいたが、いずれにしてもそれで治安を守れる人数ではない。なぜ警察強化をせず軍隊なのか。マラスと呼ばれるチンピラ集団による治安の悪化はグアテマラのあちこちで問題になっている。軍隊派遣がコツァルだけで済む問題だとは思えない。

 尚、今年 2010年には、僕の予想に反し軍隊は撤退していた。自警団パトロールを強化し、軍隊は必要ないと判断したらしい。軍隊はいなくても犯罪なしは続いているとのことだ。さらに驚いたことに、今まで4人いた警察官は現在0人なのだそうだ。もう何のことだか訳わかんねー。しかし、不気味ではある。

僕の友人の警備員。とても気さくで人懐っこいが、いざという時には銃を人に向けるのだろうか。選挙では軍隊側支持だと言っていた。これはイシルではなくてアンティグアでのこと。

2010年12月17日 (金)

第37 ジェニーの仕事

 ネバッホの中央公園で休憩していると、いつも世話になっているアデの甥っ子のジェニーに声をかけられた。一度会ったことがあるらしいがこちらは忘れていた。しかし、向こうからしてみれば、めったにお目にかかることのないアジア人だ、記憶に焼き付いていたのだろう。

 今年学校を卒業して、教員になったという。「どこの学校だ?」と聞くとどこかの村の地名を言ったが知るわけもない。詳しく聞いてみると、ネバッホのバス停から2時間ほどバスに乗り、バスを降りてから2時間半ほど歩いたところにその村はあるらしい。ネバッホから2時間もバスに乗ってまだネバッホの管轄内なのかというのも驚きだったが、そこからさらに2時間半歩いたところに学校があるというのも驚きだった。生徒は全部で150人程度で、彼の受け持ちは25人だとのことである。そんな田舎に、150人もの小学生がいるんだというのも、またまた驚きだ。

 村には雑貨屋以外は何もなく、空き家を借りて住んでいて、掃除洗濯食事は、すべて頼んでしてもらっているらしい。そのための支出は、月150Qだという。日本円にして、約1800円(2010年4月段階)。それ以外は金を使うこともなく、貯金はたまるばかりだと笑っていた。土日はすることもないため、毎週片道4時間半かけてネバッホの実家に帰ってくるという。

 後でほかの人の話を聞くと、2時間半歩くというのは序の口で、まるまる一日歩かないとバス停までたどり着けないという所も結構あるらしい。まだ電気のきていない村もあるという。教員をするのも楽ではない、いや、大変だ。

 ちなみに、2007年当時の情報だが、ネバッホの学校教員の初任給は1500Qで、2年経過するごとに300Q昇給だという。今もそう変わってはいないはずだ。
人も荷物も満載で、このような車が村々をつないでいる。時々荷物が落ちたりする。

2010年12月13日 (月)

第36 医療事情 その2

マイノールの場合

アデライダの家で昼寝をしていた。なんだか外がやかましい。部屋の外に出てみると、アデライダの夫であり、普段は県都で働いているマイノールが裏庭にマキを運んでいる。大型ダンプいっぱいのマキだ。これで2年は買わなくてもいいだろうというほどの量である。2年分の燃料をいっきに買えるほどだから、アデライダ家は裕福な部類だ。ダンプも自前である。

 それはさておき、マキを運んだ直後からマイノールが足腰の痛みを訴えだした。もっとも、それは今に始まったことではなく、以前から時々は痛かったらしいのだが、この度は深刻そうだ。痛みで顔がゆがんでいる。その晩は僕が与えた鎮痛剤でごまかして、あくる日に病院に行った。話を聞いた医者は、薬を買うように指示しただけで、4日後に来るようにと言ってその日は終わった。マイノールの痛みは治まらない。

4日後にまた病院に行った。すると、なんと医者が指定したその日は休診日だったという。しかも、ちょうどセマナサンタの週でその後数日間は休診日が続く。話を聞いた僕は腹が立ってしょうがなかったが、本人たちはあきらめ顔で怒る様子もない。結局、それから又4日後に診察してもらった。

ところがである。ここの病院ではどうしようもないからキチェの病院に行くようにというのが、医者の出した結論だった。レントゲンも撮らずにである。満足に歩けもしない状態で、2時間以上も満員バスに揺られながら彼はキチェに行った。しかし、そこでもただ1か月の休養を命じられただけで他には何も指示がなかったという。そこでもレントゲン撮影はなかった。

1ヵ月後、まだ痛みは残っていたようだが、彼は仕事に復帰した。ダンプを買った借金もたくさんあり、これ以上休むわけにはいかないというのが理由であり、痛みが消えたわけではない。

尚、仕事に復帰する直前にレントゲンは撮ってもらった。レントゲン上での異常は見つからなかったという。しかし、こんな場合真っ先にレントゲンを撮るべきだと僕は思うのだが・・。

 

 医療事情1・2とも僕の直接の体験ではないが、話を聞くにつけ、この地で病気はしたくないなとつくづく思う。しかし、ここで生まれここで育った人たちには他の選択肢はない。

 

 便利の良い都心部に住みかつお金のある人は、大枚をはたいて私立の病院に行くから問題はないのだが、普通の人には大問題だ。僕がグアテマラで病気にならなくてよかったというのもお分かりいただけるだろう。

 

この笑顔を大人になっても維持するのはなかなか難しい。本文とは関係ありません

2010年12月 9日 (木)

第35号 医療事情 その1

マリアの場合

マリアは、コロコロとよく笑い、若さではちきれんばかりだった。年齢を聞いたことはなかったが、18歳くらいだっただろうか。彼女は、コツァルではいつも世話になるペドロのすぐ下の妹で食事の世話などは彼女と母の役目だった。

そのマリアが結婚したと聞いて喜んでいた。しばらくするとその夫がピストルで撃たれて重体だとの連絡が日本に入った。彼は以前地元の暴力団と関係があったらしい。今はすっかり足を洗っていたということなのだが、そんなことは知らない対抗グループとの抗争に巻き込まれて撃たれたようだ。

その時マリアは妊娠していた。次にコツァルを訪れたときは、看病疲れと心痛が重なってか、顔は常にうつむき加減で肩をまるめ、ことば数もめっきり減っていた。結婚後初めての再会だったが、おめでとうは言えなかった。

それから数カ月して、子供は生まれたがすぐ死んだというメールが入った。本人も尿毒症でかなり重態でアンティグアにある国立病院に入院中だということだ。産後の調子が悪くネバッホの病院に行くと、ここでは処置の仕様がないからと、県都であるサンタクルス・デ・ラ・キチェの病院を紹介されたらしい。が、そこでも診きれないということでアンティグア行になったという。「貧乏人はいつもたらいまわしされるだけで満足な医療を施してはもらえないんだ。これは差別だ」と、妹思いのペドロが怒っていた。

救急車が運んでくれるわけではない。自家用車があるわけではない。もちろんタクシーで行けるわけでもない。コツァルからバスを乗り継いで7時間もかかるアンティグアまでいかなる気持ちで行ったのだろうと本人と付き添った家族の思いを想像するだけで心が痛む。

その後、アンティグアの病院にしばらくいたが、家に帰った。医療費が続かなかったのと、周囲の人と言葉が通じず孤独感にさいなまれたことが、その理由だ。決して体調が回復したわけではなかった。

注)グアテマラの国立病院の診察料は無料であるが、薬代や検査費は別会計である。

 グアテマラにはマヤ系語が20ある。入院した病院のある地方の言語は、カクチケル語でマリアが話すのはイシル語である。相互理解は不能だという。

2010年12月 5日 (日)

第34号 トウモロコシ 2

アトール・デ・エローテを食べて(飲んで?)から約一ヶ月後、今度は、「今日は、おやじが作った自分の家のとうもろこしの食べ初めだ、おいしいぞ」と昼食に誘われた。またアトールかなと考えていたが、違った。今回はそのまま茹でたやつだ。台所の隅のかまどに大鍋がかけてあり、お湯が沸いている。その中から、ペドロの妹のマリアが素手で茹で上がったトウモロコシ(エローテ)をとりだし皿に入れてくれる。煮えたぎっているというほどではないが、100度近いに違いない。取り出した後で洗面器に入った水の中にちょっと手をつけるだけで、すぐまた次の取り出しにかかる。小さいころからの訓練で、きっと手の皮がずいぶんと厚くなっているのだろう。

楽しそうにおしゃべりをしながら、そのトウモロコシを皆食べる、食べる。僕の皿には最初4個入っていた。3個食べ終えると、いつの間にかまた3個追加がきた。前のアトールの時と同じようにペドロが美味いだろうと、顔を覗き込むように聞く。この地方の主食はトウモロコシだが、トウモロコシをゆでてそのまま食べられるのはこの季節だけだという。日本で食べるスイートコーンなどと比べると甘みは少なく、少し硬いが子供の頃よく食べたトウモロコシを思い出す。それに、この家族の雰囲気がいい。思い出と雰囲気とが重なりあって、なんとも旨い。「うまいうまい」、と答えるとまた皿の中のトウモロコシが増えた。何とか無理をして、5個食べたがそれ以上は入らなかった。もう満腹ですというと、残りは帰って食べろと包んでくれた。味は塩だけ。他は何もない。しかし、ペドロの家族は皆幸せそうだった。

 その時期時期でとれたものを感謝しながらうまいうまいと皆で食べる。自信を持ってなんのてらいもなく他人にも勧める。いい生活だなと思う。
本文の家族とは関係ありません

2010年12月 3日 (金)

第33号 トウモロコシ 1

 2007年9月13日、ペドロとコツァルの観光名所の一つである滝見学に行く。往路でペドロはわき道にそれ、農家のおじさんと親しげに話をしていた。どうもトウモロコシの注文をしていたようだ。帰り道、再びその農家に立ち寄り、トウモロコシを受け取った。この地域は、この地方で最も早くトウモロコシが収穫できるところらしい。出来立てのほやほやを食べてみたいということだろう。僕の住む高知は日本で一番早く米が収穫できる土地だが、その新米をいち早く食べてみたいという我々の気持ちと似たようなものだろうか。

 さて翌日、「今日の昼ごはんは、昨日買ってきたトウモロコシだ、おいしいぞ」と、ペドロは少し誇らしげだった。いつものように台所兼食堂の土間に敷かれた木の椅子に座り手を洗う。大きな食器になみなみと注がれたスープが回ってきた。肉桂のいい香りが漂っている。
 昨日買ったトウモロコシを、砂糖を加えて煮込み、肉桂で香りづけがしてある。一口飲んだ。以前アンティグアの屋台で飲んだことのある味だが、それよりは濃厚でトウモロコシの味が強い。名前を聞くとアトールと教えてくれた。おいしい。家族中わいわい言いながら皆飲んでいる。残り少なくなったのを見るとまたなみなみと入れてくれる。ペドロが美味いだろうと嬉しそうに同意を求めた。この地方では、昼食が一日の一番主な食事なのだが、他には何も出てくる様子はない。2杯目を飲み干すと、有無を言わさず3杯目が注がれた。確かにおいしい。しかし、トウモロコシの粒がたくさん入っているとはいってもあくまでスープだ。スープばっかりそんなに飲むわけにはいかない。腹の中がドボンドボンと揺れそうだ。僕は3杯でやめたが、他の家族は5杯も6杯も飲んでいた。彼らにとっては最高のごちそうに入るのだろう。早く飲み終えた僕にだけコーヒーがふるまわれた。やっぱり水分だ!

 

 *この飲み物の正式名称は、アトール・デ・エローテという。アトールとは、トウモロコシの粉を牛乳と水で煮込んだ飲み物で、エローテとは乾燥させてない生のトウモロコシのことだ。乾燥させてない生を使用して作ったアトールですよと強調するために、敢えてエローテと付け加えているのだろう。

こんなのが空を飛んでいたら涙が出そうなくらいうれしい。この写真はグアテマラではなく、コスタリカ。

2010年12月 2日 (木)

再開します

今年の2月1日からグアテマラに70日ほど行きました。その間ブログを休むと書きましたが、70日どころか、10カ月の休みとなってしまいました。その間の事情はさておいて、再開します。取り留めもない文章ばかりですが、グアテマラのイシル地方の生活の様子が少しでも伝わればと思っています。

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