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2009年7月

2009年7月29日 (水)

ホームステイ

エル・デスカンソーが紹介してくれたホームステイ先は中央公園から歩いて5分くらいの便利な場所にあった。かなりふくよかな女主人が出迎えてくれた。夫婦と子供3人の5人家族で犬が2匹いる。ネバッホでは少数派に属するラディーノである。家は鉄筋コンクリートの1階建てで造りはしっかりしている。結構広いダイニングキッチンがあり、レンガ造りのがっしりした薪用のかまどとプロパンのレンジの両方が置かれている。その他、ソファーとテレビとステレオの置かれた居間兼応接間が一つと、全員の衣類などを置いた小さな部屋が一つに、寝室が4室ある。寝室のうちの二つは、ホームステイを受け入れるために昔ガレージのあった場所に増設したものらしく、少し雑な感じがする。車は今はない。洗濯場は裏庭にある。ステレオもテレビも冷蔵庫もあるが洗濯機はない。ここらでは洗濯機の優先順位はかなり下のようだ。もっとも、少しお金のある家は、このステイ先もそうだが、自分で洗濯はせず、お手伝いさんを雇っていることが多い。

下見に行ったとき、いきなりどの部屋がいいかと聞かれた。寝室4部屋のうち1部屋は子供用で固定されていたがあとはどこでもいいというのだ。明るくてトイレに近い部屋を選んだ。その部屋は昨日まではどうも夫婦で寝ていた部屋のようだった。ダブルベッドを出してシングルに変えてくれたから、あー、夫婦の寝室だったのかと思ったのだが、それ以外には、誰か特定の人の居室を思わすものは何もない。部屋にあるのはベッドだけといっても言い過ぎではない。あとは、過去にこの家に滞在した人たちが残して行ったというオランダのサッカーチームの写真が2枚ほど壁に貼ってあった。だからゲストの好みに応じて部屋を変えることは簡単なことなのである。誠にさっぱりしている。家はかくあるべしと、感心をしてしまった。物につまずくこともないし、掃除も簡単ではないか。僕の知る限りでは(ほんの数人だけど)、グアテマラの人は総じて皆ものを持っていない。もちろん日本ほどモノがあふれていないのは事実だが、モノが無いから、あるいは貧しいからものが買えないだけではないのではないか、と好意的に考えている。

トイレは水洗だが、しばしばこの地域では停電と断水がある。停電は、それが夜だと早く寝ればいいだけで少なくとも僕にとってはあまり問題はないが、断水は困る。排せつ物がそのまま残っているのは、それが自分のものであれ他人のものであれ気持ちのいいものでも美しいものでもない。

 トイレに隣接するシャワーについての説明は何もなかったが、壊れているように見えた。夕方、たらいに水が入っており、上部からぶら下がった針金が沈んでいた。何の気なしにたらいの中に手を入れて飛び上がった。文字通り電気が体を駆け巡った。それはニクロム線を利用した裸線電気湯沸かし装置?であった。100ボルト以上の電気を体に直接感じたのは小学校1年以来だ。尚、グアテマラの電圧は110ボルトである。手を突っ込めばどうなるかくらい当然予想できることなのに、なんとも不覚であった。小学1年生の末娘がこともなげにそれを扱っているのにもびっくりした。そんなもんだと思えばそれはそれでどうということはないのだが、お湯が亡くなった時途中で補充することができないのが不自由といえば不自由だ。

 

2009年7月20日 (月)

第4号 弾圧の爪痕

教会

田舎をバスで走っていて、貧しい家々の間には不釣り合いな大きく立派な建物を見たら、それはまず教会だと思って間違いない。ちょっとした町に行くと、その中心に中央公園あるいは中央広場と呼ばれる憩いの場所があり、その横には豪奢なカトリックの教会がある。教会内部の天井は高く、周囲はステンドグラスや聖人像に取り巻かれ、厳かな空気に包まれており、強大な権力と影響力を誇ったカトリックの過去の勢いをほうふつとさせる。中米のほとんどの国にはこの構図が当てはまる。グアテマラもそしてイシルもこの例外ではない。

 

ネバッホのカトリック教会に入った。前方で人々が祈りをささげている。入口から説教壇に至る長い通路をひざまずいて祈りながらイシルの婦人が進んでいる。誰に言われなくても帽子をとり、思わず襟を正さざるをえないような厳粛な雰囲気が漂っている。ただ、そこには他の教会と雰囲気の違うものが一つあった。入ってすぐ左の壁にかかっている2m四方くらいの大きさの絵だ。処刑されたと思しき二人の男性と、その横で泣き伏す婦人が描かれている。内戦中の処刑の様子を描いたものだろう。

一方、コツァルの教会の磔にされたキリスト像の周りには、内戦中に虐殺された人たち一人一人の名を刻んだ十字架が1千枚以上張り巡らされている。

カトリック信者であるというだけで人々は弾圧の対象になり、教会は閉鎖を余儀なくされたという。そのことに対する抗議なのだろうか。このような悲劇を2度と繰り返してはならないという教会の意志表示なのだろうか。


                                                             
処刑の様子を描いた絵(ネバッホ教会)ズラリと並んだ十字架に死者の名前が刻まれている(コツァル教会)

墓地

ネバッホのスペイン語学校の屋上から北西の方向にちょっと変わった建物群が見える。グアテマラを少し旅した経験のある人なら、それが共同墓地だということがすぐわかるだろう。その墓地をスペイン語教師のウーゴと訪ねた。学校から歩いて

15

分ほどの距離だ。道を挟んで片方には少し大げさにいえば人一人は住めそうなくらいの立派な墓が並んでいる。反対側には、高さ

30

40センチくらいの粗末な十字架がたくさん並んでいて、中には木製のため朽ちて土の中に埋没してしまいそうなのもある。少し中に入るともう少し立派な十字架があるし、コンクリートで囲まれた墓もあるのだが、左右の差は歴然としている。ウーゴによると、立派な方はラディーノの墓、粗末な方はイシルの墓だそうだ。墓の場所にまで差別がいきわたっているのかと色めき立ったが、最初からそうきめられているわけではなく、イシルにくらべると金持ちの多いラディーノの墓はどうしても立派で同じ側に並んでいるということらしい。

貧乏人の墓の入り口近くに5個6個・89個と一塊りになって並んでいる十字架群が気になって、帰り際にもう

1度ゆっくりと観察した。

比較的鮮明さを残しSebastian Chavez Solis

と刻まれた墓があった。8個並んでいるその周りの墓に刻まれた文字は消えかかって判読しにくいのだが、うちの4つからChavezという字が読み取れた。。みな同じ日付だ。その横には、

という名の十字架が8個並んでいる。皆同じ日付だ。その横には、1982

9

15日と刻まれた墓が9個ある。名前はそれぞれ違う。さらにその後ろには、

Catalina Marcos Familia

(カタリーナ・マルコス家族)とだけ書かれた

10(カタリーナ・マルコス家族)とだけ書かれた10個の墓。いずれも粗末な青い十字架だけの墓だ。よく見るとあちこちにこれと似た十字架群がある。家族中で虐殺されたり、どこかで殺されて同じ場所で同じ日に見つかった人たちの墓だと思われる。

内戦の影は、本当にあちこちにあるのだと実感した。合掌。

                                               

 

2009年7月15日 (水)

第3号 スペイン語学校

エル・デスカンソーの経営する宿の屋上にイシィル地方で唯一の語学学校であるエスクエラ・デ・イディオマスがある。スペイン語のほかに現地語のイシィル語も教えている。

スペイン語上達はあきらめてしまっている僕がこの学校に入学したのは情報収集のためだ。授業のほかに、この地域の歴史文化に関する講義1回と日帰り旅行2回と、この地域の名物料理であるボシュボルの料理教室が入学料金の中に含まれている。そのほかインターネットの無料使用もできるし、ホームステイ先も紹介してくれる。もっとも、ホームステイ紹介は入学しなくてもしてくれるのだが。授業料もホームステイ代金もアンティグアに比較して、その地域性を考えると、決して安くはなかったが、エル・デスカンソー運営のための募金も含まれているということで納得した。学校には3週間ほど在籍した。

1日の授業時間は自由に選択できる。僕の場合は

4時間を選択した。午前

8時開始で途中

30分間の休憩を挟んで

12時までだ。実質

3時間半の授業となる。グアテマラの語学学校はどこもそうらしいが、ここも教師

1と生徒

1のマンツーマン形式である。当然教師はスペイン語をマニュアルに従って教えようとするのだが、僕は、スペイン語の習得のための授業はお断りして、もっぱらいろいろな話を聞いた。天気のいい日の教室は常に戸外だった。

教師のウーゴは30代前半のグアテマラシティ出身のラディーノの男性だ。街のあちこちを案内してもらっただけでなく、生活文化・歴史・ラディーノから見たマヤ感など実に多くのことを彼からは教わった。


                                               
ホテル・メディアルナ メディオソルとその屋上のスペイン語学校

ラディーノとは、いろいろな解釈があるようだが、ここではマヤ系原住民ではない人々くらいの意味で使っている。しかし、顔を見ただけでラディーノと原住民とを見分けるのは難しく、私の場合はもっぱら服装によって判断している。つまり、伝統的なウイピルという上着とコルテと呼ばれるスカートを着ているのはインディヘナと呼ばれるマヤ系原住民で、それ以外はラディーノというわけだ。しかし、それは女性について当てはまることで、男性についてはわからない。緋色に近い赤のジャケットと白いズボンという男性の民族衣装を着ている人も散見はできるのだが、大部分はごく一般的なズボンとシャツといういでたちであり、服装による判別はできない。ちなみにネバッホの人口比率はラディーノ30%、インディヘナ(イシル)70%といわれているが、街中で観察する限りでは、イシルの比率がもっと高いように見える。ウーゴの話によれば、町の要職はすべてこの30%のラディーノが占めているということだが、確かなことはわからない。

2009年7月 8日 (水)

第2号 いきなりガツーン 墓探しボランティア

   

初日の宿は、エル・デスカンソーの経営する「メディアルナ・メディアソル」という名のホテルだ。メディアルナ・メディアソルとは、半分の太陽と半分の月という意味で、飾り物などでグアテマラではよく見るデザインだが、特別の意味があるのかどうかは知らない。ホテルの部屋は4室。個室2つとドミトリー2つ。僕は個室を選んだ。料金は140ケツァル、約600円である。部屋以外にテレビとビデオデッキの備え付けられた小さな談話室と、共有空間に卓球台が置いてある。屋上からの眺めはすこぶる良く、ネバッホの町が一望できる。

早めの夕食を済ませ談話室でテレビを見ていると、疲れた様子の男性が部屋に入ってきた。スイス人だという。簡単な自己紹介をした後、この地で何をしているのか聞いた。「内戦中に軍により殺された人たちが埋められている秘密墓地を探して、掘り起こすボランティアをしている」というのが答えだった。

カラフルな服装とのんびりした地方都市という印象のネバッホから、いきなり内戦時の最も深刻な被害をこうむった地域としてのネバッホにスイッチがチェンジした。初日にそんなことをしているボランティアに会うなど想像もしていなかっただけに少し緊張した。まだ掘り起こされていない秘密墓地はたくさんあって、その場所を確認し、掘り起こし、遺骨を家族に返すボランティアを9ヵ月間しているのだそうだ。政府や自治体が行っているのではなく、アメリカの何かの団体の事業だということだ。もし、墓地の場所が確認できても、掘り起こすには政府の許可が必要で、その許可を取るのが大変なんだとか。戦争の謝罪もせず、何の責任もとらず、責任者を罰する気もない政府側にとっては、できることなら、して欲しくない作業らしい。

可能なら僕もそのボランティアに参加してみたいと一瞬考えた。しかし、興味本位で参加するような活動ではないし、道無き山の中をはいずりまわるようにして歩き回る体力なんかありはしない。もし参加が許されたとしても他の人の足手まといになるだけだと、その不遜な考えを押し込めた。

 内容について他日もっと詳しく聞きたいと思っていたが、翌日からホームステイで宿を変えたことと、彼らの活動場所がこの地域だけではないこともあってタイミングが合わず、延ばし延ばしになっているうちにそのスイス人は帰国してしまった。エル・デスカンソーでもゲストの要求や能力に応じ様々なボランティアを紹介しているのだが、墓探しは、そのデスカンソーの紹介ではないらしい。彼の活動拠点がどこにあって責任者は誰なのかもわからずじまいだ。そのうちそのうちと延ばし延ばしにしていたことが悔やまれる

コツァルの滝の近くにある洞穴。狭い穴だが、内戦中は多くの住民が中に隠れ住んでいたという。写真は本文とは直接関係ありません。

2009年7月 1日 (水)

イシルとの出会い

中米のグアテマラという国の西部高原地帯にキチェという県がある。IXILはその県の中央部に位置する地域の名前である。ネバッホ・コツァル・チャフルという主要3都市とその周辺で構成され、イシル三角地帯と呼ばれる。人口は約12万人。住民の大多数はマヤ系原住民でイシル語を母語とする。

 

イシィルとの出会いのきっかけ

 「地球を歩く」の中米編にたよってのグアテマラ観光?に物足りなさを感じていた時に、ホームステイ先の物置の上にアメリカの旅行案内書「ロンリープラネット」を見つけた。ぱらぱらとめくっていると、「ネバッホ」という町の名前がなぜか目に入った。20063月のことである。
その案内書曰く、「ネバッホを含むイシル地域は、内戦中多くの住民が虐殺され失踪し、家々は焼かれ、
24以上の村が破壊され消滅した。この地域を旅すれば、悲惨な体験談をいくらでも聞くことができるだろう。しかし、その過去を乗り越え新たな地域づくりの努力がいま必死でなされようとしている。そして、クチュマタン山脈の裾野に位置するこの地域の景色は息をのむほどに美しい」と。これはネバッホに行かない手はあるまい、とそう思った。

 

いざネバッホへ

 当時私は世界遺産とセマナサンタの祭り?で有名なアンティグアという町でホームステイをしていた。まさにそのセマナサンタが終った翌日の朝5時にアンティグを出発した。アンティグアから先ずはチマルテナンゴという町まで行く。バスで約40分の距離だ。そこでバスを乗り換える。チマルテナンゴから満員バスに揺られて約3時間で、キチェ県の県都であるサンタクルス・デ・ラ・キチェに到着する。
キチェからネバッホまでは約
2時間半なのだが、そのバスの込み具合は想像を絶していた。足の踏み場もないとはまさにこのことなのだと思った。本当に身動きできないのだ。車掌は背もたれの上に足を置き、手は天井、お金は口にくわえながら集金をしていた。まるで曲芸師のようだ。料金を払うための金をポケットから出すのにも大変な努力が必要だった。もう降りると叫びたかった。でも降りてもどうしようもない。耐えるしかなかった。約1時間走ったところでサカプーラスといういくつかの町への分岐点に着いた。ここで何人かの人が降りた。少しだけ楽になった。この街は周辺の町にくらべると高度が低く、とても暑い場所なのだが、その時はそんなことを感じるほどの余裕もなかった。そのサカプーラスから約40分間バスはつづら折りの急坂を登りに上る。大変美しい風景の広がる場所なのだが、もちろんその時はそんなことには気づきもしない。坂をのぼりつめ10分もすると、ずっと下方に集落が見えた。あれがネバッホだと、隣に立っていたおばさんが教えてくれた。もうすぐ着く、そのことだけに感激していた。

 バスから降り中央公園に座って硬直した体をほぐし一息ついた。ほとんどの女性は緑っぽい生地に鳥の模様をあしらったウイピルを着ており、頭にウイピルと同じ柄のコルテと呼ばれる長い髪留めを巻いている人も散見できた。緋色のジャケットを着ている男性も何人か目についた。外国人は見当たらない。かといってじろじろと見られるわけでもない。これまで訪れた観光地のどの町とも似ていない街だったが、静かでいい町だと思った。

 尚、ネバッホは、イシルの玄関口に位置し、人口約2万5千人を抱えるこの地域最大の町である。

 

エル・デスカンソー

公園で一段落すると、エル・デスカンソーを探した。エル・デスカンソーとは新たな地域づくりを目指している団体の名だ。文字通り訳せば、スペイン語で休息を意味する。宿屋とレストランと旅行案内業と外国人のためのスペイン語学校と青少年育成のためのいろいろな教室、その他、手広く手掛けている。一日だけ宿に泊まり、スペイン語学校の入学手続きをし、ホームステイの手続きもしてもらった。いよいよイシルでの生活が始まる。
高台から見たネバフの町 中央上の大きな建物は教会

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